本願寺では、宗祖親鸞聖人のご命日にあたり毎月15日・16日に「宗祖聖人月忌法要」を営み、
祥月(しょうつき)命日(1月16日)に際しては、≪御正当の忌日(命日)に聖人のご恩徳を報謝する法要≫として
毎年1月9日から16日までの8日間、「御正忌報恩講」を修行しています。
また、50年毎の節目にあたる、親鸞聖人の年忌法要を「大遠忌」と称して、特に大切にお勤めいたしております。
2012(平成24) 年には750回忌の「大遠忌」をお迎えします。私たち一人ひとりが共々に、聖人のご苦労をしのび、
お徳を讃えるとともに、浄土真宗のみ教えを深く味わうことのできる新たな機縁とするところに、「大遠忌」をお迎えする意義があると言えましょう。
宗門では、2011(平成23)年4月にお迎えする親鸞聖人750回大遠忌法要の気運を盛りあげるとともに、
<新たな門信徒の誕生>や<寺院や組活動に従来ご縁のなかった方々の参画>をめざし、8都市において、
それぞれの地域性や特色を考慮した「地方都市における法要行事」を修行・開催します。
(「九州地区法要」は8都市のうち「福岡市における法要行事」です)
また、全ての「組」において、それぞれの地域性や特色を考慮した法要行事が修行・開催されることを目標としています。
詳しくは親鸞聖人750回大遠忌(本山)をご覧下さい。
平安時代も終わりに近い承安(じょうあん)3年(1173)の春、親鸞聖人は京都の日野の里で誕生された。
父は藤原氏の流れをくむ日野有範(ひのありのり)、母は吉光女と伝える。
聖人は養和(ようわ)元年(1181)9歳の春、伯父の日野範綱(のりつな)にともなわれて、慈円和尚(じえんかしょう)のもとで
出家・得度(とくど)をされ、範宴(はんねん)と名のられた。ついで比叡山にのぼられ、
主に横川(よかわ)の首楞厳院(しゅりょうごんいん)で不断念仏を修する堂僧(どうそう)として、
20年の間、ひたすら「生死いづべき道」を求めて厳しい学問と修行に励まれた。
しかし建仁(けんにん)元年(1201)聖人29歳のとき、叡山では悟りに至る道を見出すことができなかったことから、
ついに山を下り、京都の六角堂(ろっかくどう)に100日間の参籠(さんろう)をされた。
尊敬する聖徳太子に今後の歩むべき道を仰ぐためであった。95日目の暁、聖人は太子の本地である救世観音(くせかんのん)から
夢告(むこく)を得られ、東山の吉水(よしみず)で本願念仏の教えを説かれていた法然上人(ほうねんしょうにん)の草庵を訪ねられた。
やはり100日の間、上人のもとへ通いつづけ、ついに「法然上人にだまされて地獄に堕ちても後悔しない」とまで思い定め、本願を信じ念仏する身となられた。
法然上人の弟子となられてからさらに聞法(もんぼう)と研学に励まれた聖人は、
上人の主著である『選択集(せんじゃくしゅう)』と真影(しんねい)を写すことを許され、綽空(しゃっくう)の名を善信(ぜんしん)と改められた。
そのころ法然上人の開かれた浄土教に対して、旧仏教教団から激しい非難が出され、ついに承元(じょうげん)元年(1207)
専修(せんじゅ)念仏が停止(ちょうじ)された。法然上人や親鸞聖人などの師弟が罪科に処せられ、
聖人は越後(えちご 新潟県)に流罪。これを機に愚禿親鸞(ぐとくしんらん)と名のられ非僧非俗(ひそうひぞく)の立場に立たれた。
このころ三善為教(みよしためのり)の娘・恵信尼(えしんに)さまと結婚、男女6人の子女をもうけられ、在俗のままで念仏の生活を営まれた。
建保(けんぽう)2年(1214)42歳の時、妻子とともに越後から関東に赴かれ、
常陸(ひたち 茨城県)の小島(おじま)や稲田(いなだ)の草庵を中心として、自ら信じる本願念仏の喜びを伝え、
多くの念仏者を育てられた。元仁(げんにん)元年(1224)ごろ、浄土真宗の教えを体系的に述べられた畢生(ひっせい)の大著『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』を著された。
嘉禎(かてい)元年(1235)63歳のころ、関東20年の教化(きょうけ)を終えられて、妻子を伴って京都に帰られた。
『教行信証』の完成のためともいわれ、主に五条西洞院(にしのとういん)に住まわれた。
京都では晩年まで『教行信証』を添削されるとともに、「和讃」など数多くの書物を著され、
関東から訪ねてくる門弟たちに本願のこころを伝えれらたり、書簡で他力念仏の質問に答えられた。
弘長(こうちょう)2年11月28日(新暦1263年1月16日)、聖人は三条富小路(とみのこうじ)にある
弟尋有の善法坊(ぜんぽうぼう)で往生の素懐(そかい)を遂げられた。90歳であった。
(以上、本願寺ホームページより)
平成24年1月16日は、宗祖親鸞聖人の750回忌にあたります。
本願寺では、ご修復を終えた御影堂において、親鸞聖人750回大遠忌法要を平成23年4月よりお勤めすることになりました。
このご勝縁に、聖人のご苦労をしのび、お徳を讃えるとともに、浄土真宗のみ教えを深く受けとめ、
混迷の時代を導く灯火として、広く伝わるよう努めたいと思います。
親鸞聖人は承安3年に御誕生になり、9歳で出家得度され、比叡山で学問と修行に励まれました。
しかし、迷いを離れる道を見いだすことができず、29歳の時、聖徳太子の示現を得て、源空聖人に遇われ、
本願を信じ、念仏する身となられました。35歳の時、承元の法難により、越後にご流罪となられますが、
後にはご家族を伴って関東に移り、人びとと生活をともにし、 自信教人信の道を歩まれました。
晩年は京都で、ご本典の完成に努められるとともに、三帖和讃など多くの著述にお力を注がれ、
90歳を一期として往生の素懐を遂げられました。
親鸞聖人によって開かれた浄土真宗は、あらゆる人びとが、阿弥陀如来の本願力によって、往生成仏し、
この世に還って迷えるものを救うためにはたらくという教えです。南無阿弥陀仏の名号を聞信するところに往生が定まり、
報恩感謝の思いから、如来のお徳を讃える称名念仏の日々を過ごさせていただくのです。
仏教の説く縁起の道理が示すように、地球上のあらゆる生物非生物は密接に繋がりを持っています。
ところが今日では、人間中心の考えがいよいよ強まり、一部の人びとの利益追求が極端なまでに拡大され、
世界的な格差を生じ、人類のみならず、さまざまな生物の存続が危うくなっています。
さらに、急激な社会の変化で、一人ひとりのいのちの根本が揺らいでいるように思われます。
私たちは世の流れに惑わされ、自ら迷いの人生を送っていることを忘れがちではないでしょうか。
お念仏の人生とは、阿弥陀如来の智慧と慈悲とに照らされ包まれ、いのちあるものが敬い合い支え合って、
往生浄土の道を歩むことであります。如来の智慧によって、争いの原因が人間の自己中心性にあることに気付かされ、
心豊かに生きることのできる世の中、平和な世界を築くために貢献したいと思います。
私たちの先人は、厳しい時代にも、宗祖を敬慕し、聴聞に励まれ、愛山護法の思いとともに、助け合ってこられました。
この良き伝統を受け継がなければなりません。しかしながら、今日、宗門を概観しますと、
布教や儀礼と生活との間に隔たりが大きくなり、寺院の活動には門信徒が参加しにくく、
また急激な人口の移動や世代の交替にも対応が困難になっています。
宗門では、このたびのご法要を機縁として、長期にわたる諸計画が立てられ、広く浄土真宗が伝わるよう取り組むことになっています。
700回大遠忌に際して始められた門信徒会運動、重要な課題である同朋運動の精神を受け継ぎ、
現代社会に応える宗門を築きたいと思います。そのためには、人びとの悩みや思いを受けとめ共有する広い心を養い、
互いに支え合う組織を育て、み教えを伝えなければなりません。あわせて、時代に即応した組織機構の改革も必要であります。
それとともに、各寺各地で勤められる大遠忌法要を契機に、その地に適した寺院活動や門信徒の活動を、
地域社会との交流を、そして、寺院活動の及ばない地域では、一層創意工夫をこらした活動を進めてくださるよう念願しております。
宗門の総合的な活動の新たな始まりとして、皆様の積極的なご協賛ご協力ご参加を心より期待いたします。
平成17年
2005年1月9日
龍谷門主 釋 即 如
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