ご法話

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8月の法話

『お念仏が満ちてくださっている』

水上 覚也(中間市 覚正寺)

 「我思う故に我あり」とフランスの哲学者デカルトが言いました。「我思う」とは「思う人間の精神=脳」であり、「我あり」とは「思う人間の精神の延長にある物体=脳以外の身体」と私は理解しています。これは人間の存在は「思う脳」と「身体」で相互に独立して成り立っているというようです。

  それでも「我思う故に我あり」とは、一人の人間存在の中で「脳=精神」が主で、「身体=物体」が従のように見えます。身体より脳が一番というのなら、自分の身体は思いどおりになりそうですが・・・。

 ご法事の光景を思いだしてください。長い時間正座をしていると足がシビレてきます。あの足のシビレは、脳が長時間正座をするとシビレるようになっていると思うから、だんだんシビレてくるのでしょうか。

 そうではないでしょう。足は脳が思おうと思うまいと勝手にシビレて、座っている足を動かすように脳に知らせるのです。

 それでも脳はご法事の最中だから、足がシビレさせて動かすように知らせても、ガマン!ガマン!と思いながら、足の命令を無視して座っているのでしょう。隣の人は、足のいう通り!と賛成して足をくずしたりもしています。厳かなご法事の時間は、足をくずすか? くずさないか? の迷いの真っ最中なのでしょうね。

 このことは声を出すことのできない足=身体がシビレるという方法で脳に足の危機的状況を知らせています。つまりシビレている姿は我あり(足=身体)が我思う(脳)に存在を知らせていることなのです。

 あのご法事の光景は、「我思う故に我あり」というよりは「我ある故に我思う」のほうがあっているようではありませんか。

 人間は、脳と身体が合体して存在しているのではありません。だから脳が主とか、身体が先とか言うことでもありません。身体と脳は一体であり相関して存在しているのが人間の「いのち」の営みです。

 「我ある故に我思う」の「我ある」とは縁起して存在する人間=脳も含めた身体、いのちの全体です。

 私はもう人間として生まれ悩みを多く抱えて生きています。あの足のシビレる風景の中の私は、もう煩悩を具足して迷って生きている人間の有りさまそのものです。

 「淨土眞宗」=『仏説無量寿経』のお法(みのり)は、法蔵菩薩さまが覩見(煩悩具足の有りさまご覧くださって)・思惟(悩むものの覚りと救われてゆくものの世界とその方法をご思案くださって)・発願(四十八の願)・ご修行くださって、本願成就=南無阿弥陀仏=他力回向の行信=煩悩具足の私のナムアミダブツとなってお救い下さる仏さまですよ、とお釈迦様が讃えてお知らせくださいました。

 朝、お仏壇の前で「帰命無量寿如来・・・」とお勤めします。それは親鸞さまが阿弥陀さまの前で「阿弥陀さまにおまかせいたします。お浄土で覚りの身に生まれさせていただけるとは、何と有り難いことでしょう。」と仏さまのお救いの喜びをうたわれたお言葉です。

 お勤めするとき、親鸞さまのお言葉を聞きながら私たちも喜びます。お勤めをし、お念仏するそのままが、阿弥陀さまが「わたしにまかせなさい。必ずあなたを幸せにします。」とナンマンダブ・・・今、満ちて喚びかけてくださる、仏さまの喚び声でもあるのですよと親鸞さまは教えてくださいます。南無阿弥陀仏。

合 掌

7月の法話

ここにいるよ・・・

井上 浄英(那珂川町 真教寺)

 この春、長女が小学校に入学しました。幼稚園を3年間休まず通園し、皆勤賞をいただきました。風邪をひいたこともありましたが、たまたま幼稚園が休園日だったり、また、「お腹が痛い・・・」と言うので、「今日は休もうか?」と尋ねると、「病院に行ってから幼稚園に行くよ!」と泣きながら訴えてきたこともありました。振り返ると、親子でともに泣いたり笑ったりした3年間でした。

 皆勤した娘も入園して2週間程は、泣いて帰っていました。最初は、幼稚園で何かあったのかと心配しましたが、涙の理由は別にありました。それは、幼稚園バスで帰ってくる娘を妻が、「お帰り」といつも迎えています。娘の涙の理由というのは、「お帰り」というお母さんの声に安心しての涙だったのです。入園したばかりで不安で一杯の娘が、「お帰り」の言葉に緊張の糸がプツンと切れて、ホッとして安心して泣いていたのでした。

 この「お帰り」の言葉の中には、妻の様々な思いが詰まっているようです。大丈夫だった? ケガはしなかった? 給食は食べた? お友達と仲良くしている? など、妻の心配は尽きることがないのです。「お帰り」には、「私はここにいるよ、大丈夫だよ・・・」という、母のほっとけないというはたらきが溢れているのです。

 涙を見せた娘も次の日には、「行ってきます。」と元気に幼稚園へ。それを「行ってらっしゃい」と見守る母の姿がいつもありました。

 『南無阿弥陀仏』は、苦悩の有情、生きとし生けるものすべてをほっとけないという、よりそいの名のりであります。『ここにいるよ』と、いつでもどこでもどんなときでも、おはたらきくださっているのです。この『南無阿弥陀仏』に包まれて、悲喜の人生をお念仏申させていただきながら、生きて往きましょう。

合 掌

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