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2017年8月の法話

願いの方向

河野一声 本願寺派布教使 東筑組 昭然寺

先日、ご門徒のご婦人から「若院さん、一緒に納骨堂に来てほしい」と声をかけられました。ご一緒に納骨堂に行きますと「亡くなった主人の遺骨と一緒におさめている写真を持って帰りたい」と言われます。

このご婦人は、十年程前にお連れ合いに先立たれ、そのことがご縁となり、お寺に納骨堂をもとめられた方でした。また、それ以来、ご法座や毎月の清掃奉仕にもお参りいただくようになりました。

私が「なぜ、おさめている写真をわざわざ持って帰るのですか」と尋ねますと、実は、持って帰りたいと言われる写真は、亡くなったご主人の写真ではなく、ご婦人ご自身の写真だと言われるのです。

「主人の遺骨を納骨堂におさめる時、主人が一人ぼっちでここにいるのかと思うとかわいそうで。せめて私の写真だけでもと思い、こっそり一緒におさめたんです。ただ、それからお寺にお参りするようになり、いろいろなお坊さんから、浄土真宗のお話を聞くようになりました。私の命を抱いてかかえて必ずお浄土に生まれさせ、仏と仕上げてくださるという阿弥陀様のお話を繰り返し聞かせてもらいました。最初はよくわかりませんでしたが、最近、思うんです。亡くなった主人は、ここ(納骨堂)に一人寂しく眠っているんじゃなくて、仏様になって阿弥陀様と一緒に、いつも私を見ていてくれているんじゃないかと。そう思うと、この私の写真は必要ないんじゃないかと思い、持って帰ろうと思ったんです」と。

浄土真宗は「他力本願」というみ教えです。「他力」とは「阿弥陀様のはたらき」、「本願」とは「すべてのものを必ず仏と仕上げるという阿弥陀様の願い」です。

亡くなった方が寂しくないように、また少しでも良いところに行けるように、残された私が何かしてあげたいという「願い」は誰しもが持つものかもしれません。しかし、「すべてのものを必ず仏と仕上げる」という阿弥陀様の「願い」を聞かせていただくと、私が思っていた「願い」の方向が全く逆であったと気づかされます。「私が何かをしなければ」から「仏様の方が、すでに私に願いをかけてくださっていた」という事に気づかされるのです。私から仏様ではなく、仏様から私です。

この私を「必ず仏と仕上げる」という「願い」を聞かせていただき、その「はたらき」におまかせさせていただく、それが浄土真宗の「他力本願」のお心であります、とお聞かせにあずかります。

合  掌

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