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2017年4月の法話

立ち止まって

中島法昭 本願寺派布教使 粕屋組 藤円寺

およそ七〇年前のことです。ドイツナチス政権下で、何百万ともいわれるユダヤ人がアウシュヴィッツに代表される強制収容所におくりこまれ、ガス室で殺されました。既に、ご存知の通りです。

この残虐な行為に関わった現場の責任者がアイヒマンという人物です。彼は、戦後イスラエルで逮捕されました。やがて、彼の裁判が始まります。

アイヒマンは、裁判のなかでこのように語っています。
自分はただ上司からの「命令に従っただけで」(『イエルサレムのアイヒマン』)、ユダヤ人を殺したという意識は持っていないというのです。
ユダヤ人をまるで南京虫やしらみを退治するかのように、ガス室で殺したことに全く罪の意識を感じていないのです。唖然とします。

このような無責任なアイヒマンの発言を裁判所で傍聴していたハンナ・アーレントは、自らの著『イエルサレムのアイヒマン』の中で次のようなことを述べています。
アイヒマンに徹底的に欠けているのは、「他人の立場に立って考える能力」、即ち「想像力の欠如」だというのです。
 続けてこうもいっています。「実に多くの人々がアイヒマンに似て」いると言うのですから、背筋がぞっとします。

ユダヤ人をガス室で毒殺したアイヒマンも、日常はすごく平凡な顔をした市民の一人に過ぎません。先に述べましたように、「他人の立場に立って考える」ことができず、ただ上司の命令に従って行動するのです。このようなアイヒマンのタイプの人間は、街のどこにでもいるという訳ですから決して遠い昔話ではありません。他人事ではないのです。

以上述べてきました事を、立ち止まって考えてみたいものです。
およそ人間は縁次第で何をしでかすかわかりません。私自身がそうなのです。
『歎異抄』(第一三章)の「さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひもすべし」という一語が、他人の痛みに鈍感な私の胸にひびきます。

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