ご法話

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2016年3月の法話

死と同じように避けられないもの。それは生きること。

藤崎 功 本願寺派布教使 東筑組 偏照寺

チャールズ・チャップリンの映画「ライム・ライト」があります。

テリーという若いバレエリーナが足をケガして、ガス自殺をはかります。道化師カルヴエロが発見し、彼女を助けます。「なぜ死なせてくれなかったの」と恨みごとをいう彼女に、カルヴェロはこう言って励ますのです。「人生は恐れなければ、とても素晴らしいものだよ。どんなに辛くても生きるに値するんだ。人生に必要なもの。それは死と同じように避けられないもの。それは生きることだ。」

カルヴェロの愛情と励ましで立ち直ることができた彼女の、晴れ舞台の日。老いた道化師は心臓発作に襲われ、踊子の舞台を幕の間から見ながら、息を引き取ります。

彼女はカルヴェロの死を知らずに、華やかに舞っている・・・・。そこで映画は終わります。人生の哀歓が見る者の胸を締め付けて、涙が滲んでくるような映画です。

お釈迦さまは、人間のいのちとは・生きるとは・死ぬとは・喜びとはなんだろう。多くの葛藤と感情の心が大きく動かされました。そして、29歳の時に出家を決心をされ、全ての環境・王子の位を投げ捨てて、お城を出られたのです。

どんなに目先の楽しみを追い求めても、老いて・病にかかり、そしてやがては全てを置いて死んでいかなければならない。決して逃れることのできない老・病・死の実体。現代に生きる私たちもまた、誰もがその苦しみを抱えながら生きているのではないでしょうか。

このお釈迦さまの苦悩こそ仏教の出発点であり、この事実と共にどのように生きるかが、仏道でありましょう。

「仏法を聞くと、死の話になるから嫌だ」という声を聞きます。確かに死の話は楽しいものではありませんし、できれば避けて通りたいものです。しかし、「死」を無視して、目をつぶって生きることは、「本当の意味での生きることではない」とお釈迦さまは申されています。

だからこそ、阿弥陀如来のご本願は、このような私のために向けられています。わが身の至らなさを思うにつけ、南無阿弥陀仏のはたらきが私を支え、導いてくださることを有り難く受け取らせていただきたいと思います。

欲望や執着に目が向いている間はなかなかそのことに気付きませんが、この人生の事実を「問い」として生きるところに、かけがえのないお念仏の道が開かれていくのです。
南無阿弥陀仏

うつろいゆくわたし

川﨑潔 本願寺派布教使 怡土組 長楽寺

「あの大きな銀杏の樹齢はどれくらいですか?」

お寺へ参拝されたご門徒の方に度々尋ねられます。私は

「おおよそ300年ぐらいと聞いています」と答えるようにしています。

私がお世話になっているお寺の境内には大きな銀杏の木があります。家族や親戚の誰に尋ねてみても正確な樹齢はわかりませんが、おおよそ300年ほどだそうです。

桜の見頃が終わりを迎えるとき、この銀杏の木の新芽が顔を出し始めます。もうしばらくすると新緑が一層美しくなります。この季節の銀杏が私は一番好きです。

一昨年の暮れより、老朽化した本堂の建て替え工事が始まり、本堂が取り壊されました。それにより今では境内の中ではこの銀杏が一番古いものになりました。解体される本堂のすがたに少し寂しい気持ちになりながら、これからもこの銀杏がそのいのちを終えるまでお寺の歴史を見ていてくれるだろうと思いました。そしてふと、その時には自分のいのちはどうなっているだろうかと考えました。

私たちの日常の周りを見渡しても、様々なものの移りかわりを感じることができます。その姿に自分のいのちを重ねながら、時には自分のいのちの行く末を考えてみることは必要なことではないかと思います。死に思いを巡らせること、それはつまり自分自身の生きる意味やこれからをどう生きるかを考えることとなるのではないでしょうか。

普段は生きていくことばかりを考えて、目先の忙しさや、めでたいもの、楽しいものの方にばかり目を向けて、自分のいのち終わりのことはあまり深く考えません。しかしどこかに死に対する不安ずっと抱えながら、生きているのが私の相であります。

この私のいのちの問題を、私に先立ち解決して下さったのが阿弥陀様です。私のあり方をご覧になり、放ってはおけない、救わずにはおけないとご心配下さいました。私に変わりなさいとは仰らず、「あなたを救える仏となります」という願いを打ち立てて下さいました。そしてその願いの通りに南無阿弥陀仏の声の仏様となって「あなたの命は死んで終わりじゃない、浄土に生まれる命なのだよ」と至り届いて下さっています。私のところに来て下さいますから、一人ではないのです。浄土に向かう阿弥陀様とご一緒の人生を歩ませていただくことであります。

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