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2016年9月の法話

自信教人信

木村眞昭 本願寺派布教使

今年の福岡教区布教団による「布教大会」のテーマは「自身教人信」です。このテーマは善導大師の『往生礼讃』の言葉で、「自信教人信 難中転更難 大悲伝普化 真成報仏恩」と続きます。その意味は、「自ら信じることによって人を信ぜしむ、これは難しいなかに更に難しいことであるが、如来の大悲はこうして伝えられ多くの人を救うのですから、まず自ら信ずることが真に仏のご恩に報いることになるのだ」ということです。

私たち浄土真宗の僧侶になったものは、得度のときにこの言葉を発して生涯、真宗僧侶としての一歩を踏み出します。その後も、この言葉を忘れることなく一日一日を過ごします。ですから自ら信じる、南無阿弥陀仏の名号となって自分にはたらき続けている(と教えられた)弥陀の本願を信じなければならない、と言い聞かせながら生きていくことになります。

でも、これは大変なことです。阿弥陀さまとか、本願とか、名号とかいわれても、言葉だけが頭のなかでグルグル回っているだけでまったくリアリティはないのですから、いつになったら信じることができるのでしょう。でもそう口に出してしまっては僧侶失格ですから、分からなくても解ったふり信じたふりをして、過ごしていくことも多いのです。

でも、これが有難いことなのではないのでしょうか。ご門徒は、住職や若住職は解っている信じていると思われて本堂のお給仕をおまかせし、ご法事のお勤めを依頼されるなど大事にしてくださいます。僧侶の側はそれに応えて、とにかく朝夕の勤行をはじめ如来さまのお給仕を丁寧に果たしながら、お念仏相続の日暮しを重ね、たまにはお聴聞もし、お聖教を開いて拝読もしていくのです。そのうちに、いつの間にか薫習(くんじゅう)されお育てにあずかっていくのであります。

「自信教人信」とありますから自分が信じてその後に人を導いて信じさせると理解してしまいますが、とんでもないことであります。私が信じるに先立って、如来の本願のはたらきにおまかせして浄土に向かって歩んでおられる方々がすでにおられるのです。先生やお同行など、ご法義を喜んでおられる方々の姿に頭を垂れその背中を拝んでいるうちに、信のなかった私もいつの間にか浄土への道を歩ませていただいているのであります。

こうして私を育ててくださったのですから、「自信」の前に「教人信」ありと味わうことができるのではないでしょうか。

浄土真宗は、師ありて弟子なき道といわれます。親鸞聖人はよきひと法然聖人を終生、師と仰いでいかれました。しかし、「弟子一人も持たずそうろう」です。

もったいなくも思えば、無始流転のわれらを救わんとの法蔵菩薩の発願も、師の世自在王仏との邂逅があってのことでありました。そこに師弟を超えて一貫している願心こそが畢竟依(ひっきょうえ=究極の拠りどころ)であります。

合 掌

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