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2016年10月の法話

どんな人が救われる?

久保大道 本願寺派布教使 御笠組 慶伝寺

浄土真宗のご宗旨は阿弥陀仏という仏様のお救いのはたらきを私のこの身の上に聞かせていただくものです。私を救いの目当てとされて、阿弥陀様がご用意くださったお浄土へと参り、仏と成らせていただくのです。しかし、どんな人間でいたならば、どのように人生を送れば阿弥陀様は私を救ってくださるのでしょうか。

先日ご法事のご縁を頂いた時ですが、ご門徒の方から「お寺さんと違って私みたいな凡人には仏教がわからないから救われません。」と冗談交じりに言われました。 察するにその方は、自分自身がどうあるべきかが自分が救われるための何らかの手助けになるとお考えのようでした。

話は変わるのですが、ニュース等で親による児童への虐待について度々報じられる事があります。
虐待の理由の一つには「子どもが言う事を聞いてくれない」というものがあります。 自分がこれだけの苦労をしているのにそれ相応の反応が子どもに見られない。子どもが分かってくれない。その気持ちの矛先が子供に向かってしまうということです。

しかし子どもの側はどうかというと、生まれた頃から親の考えを解ろうと解るまいと親の腕の中にその身を委ねてスヤスヤと眠っていたわけです。泣こうが暴れようが自分を心から包み込んでくれる、親という絶対的な存在に身も心も任せているのです。

子を持つ親の大多数は自分のした苦労の見返りを求めて子を産むわけでは無いはずです。 そればかりか自分のした苦労と一切子供に語らない親も多いでしょう。
良い子であるからとか、甘えず我慢強いからとか、条件付きで育てる親ならば、それは最早姿形だけの存在です。我が子であるという理由一つだけで「この子を放ってはおけない」と涸(か)れることのない愛情を注いでくれるから、その存在を子は親と呼ぶのです。

阿弥陀様という仏様は私に「こうでなければならない」という条件を付けたり見返りを求めることはありません。「救われるためにはこう変われ」と仰るのではなく、阿弥陀様自らが私を救える仏様に成ってくださいました。お坊さんであろとなかろうと、聞こうともせず解ろうともせずしてここまで生まれ変わり死に変わりを繰り返してきた命です。
お浄土の世界や阿弥陀様自らのご苦労を私に解らせて救うのではなく、解らぬこの私を解らぬままに救ってくださる仏様のおはたらきを南無阿弥陀仏のお念仏の中に味わいながら浄土へ参る道を歩んでいきたいと思います。

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