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2016年11月の法話

かけがえない命を頂いて

髙石彰也 本願寺派布教使 西嘉穂組 正円寺

三年前の夏、開腹手術の結果「悪性ガンで平均余命二年程でしょう」との告知でした。
「我や先 人や先、今日とも知らず、明日とも知らず」と幾十年繰り返してきた事が、いかに他人向けだった事か思いしらされました。「刹那無常・変異生死」の教えが、やっとハラワタにしみこんできました。
私に限ってはと、死は想定外の無関係なできごとでした。
この間、見舞いに訪れてくれた幾人もの親しい友が先立っていきました。
順不同。生死は表裏一体の日常のわがことだったのです。けれどやはり死からのがれたい。不安と畏れがどこまでもつきまとうのです。

そんな私に「いそぎ参りたき心なきものをあわれんで」大悲の如来様は「往生決定して下さる」というのです。
だから、それ程の煩悩具足の無明の闇深き私だと気づかせ、濁世を悔いなく生きる為の目足として、真実の頼りを拠り所に生きぬかせようと、念仏となってよびかけて下さっていたのです。
この明日知れぬかけがえなき貴重な命、無数の縁のつながりに支えられてしか生きられないと知る時、私たちはいかに真実に背いて、命本来の尊さを見失い邪見と分別の格差をつけて生きていることかと知らされます。

相模原障害者施設での大量殺傷事件では「障害者は生きている事が不幸」という理由により障害者へ刃が向けられたのでした。
極悪非道の犯行は断じて赦されるものではありません。けれども同時に一人の犯人を罰する事でおさまる問題ではないようです。
なぜなら、障害は特別なできごとでなく誰の身の上にも起こる人生の通過過程の現象なのです。単に高齢者のみではあたかも春夏秋冬の如く生老病死の歩みの中の事なのです。
それも「長生きする事は国の財政に負担をしいる」との某現職大臣の発言にみられるような、命を有用無用にわけへだてるところからくる優生思考に基づく蔑視感が、社会の底流に息づいているのではないでしょうか。
「出生前診断」もまた時として胎児の障害の有無からくる命の選別につながりかねない問題をふくんでいます。
更に沖縄では軍事基地化を憂うる全島民への政府の金銭と暴力による蹂躙。福島では放射線量隠蔽による偽りの終息宣言など。命の露骨な僻地差別が白昼堂々行われています。
あらためてご信心を戴くとは「貴賤貧富や老少善悪の人を選びへだてる事なく」、すべての命を同朋と認め合い、同座しあう世界を願って、何時終るかも知れない命なればこそ、一日一日を精一杯生き抜かせて頂くほかないのです。

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