ご法話

トップページ > ご法話

2016年12月の法話

薫習(くんじゅう)

泉谷篤士 本願寺派布教使 夜須組 専念寺

先日、私の地域で町内の運動会が行われました。

久しぶりに体を動かしますと、思うように動かなくなった自分自身に気がつきました。
町内の先輩方に「体のキレが悪くなりました。」と話すと、「これからますます動きが鈍くなっていくよ」と笑顔で話されました。

家に戻ってもそのことを考えていると、ある方の話を思い出しました。

「若い頃は年を重ねていくことは、つまらんことと考えておりました。

だんだん体も思うように動かなくなっていくし、憶えたこともすぐ忘れてしまう。

年はとりたくないと考えておりました。しかし年齢を重ね、動きも鈍くなり、新聞や本を読むことさえ難しくなってきました。そして取り入れた知識が頭に留まってくれずにすぐに忘れてしまいます。だからでしょうか、改めて同じ部分を読んでみると前と同じに、いやもっとより以上に感動したり深くうなづいたりできるのです。

これを情けないと思わずに、私は何度でも感動することができるのだと喜ぶようになりました。そう思うと私は、まわりの人々の深い思いに囲まれてその思いを何度でも味わうことができると思うようになりました。

がんばることも大切です。けれどもがんばりでひらかれるのはほんの入り口です。年を重ね わが身がおぼつかないものだという事実を生きるにつれて、私をささえて下さる大きさがみえてきました。手を合わすこともそうです。若い頃は、なんのために手を合わすのだと思っていました。しかし年を重ね、知らず知らずのうちに手を合わすようになりました。何度も何度も手を合わすうちに、私を育んでくださる、包み込んでくださるものの大きさあたたかさを味わうようになりました。」とおっしゃいました。

薫習(くんじゅう)ということがあります。

薫習とは、「物に香りが移り沁むように、あるものが習慣的にはたらきかけることにより、他のものに影響・作用を植え付けること。」です。私も知らず知らずのうちにお念仏申す身になっておりました。私が年齢を重ねて年をとるということは、何回も何回もお念仏を申すことになります。この私を包みこんでくださるものの大きさ、あたたかさを何度も味わうことになるのです。

このページのトップへ