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2019年5月の法話

5月の法話

田村慈水 本願寺派布教使 下川東組 西教寺

「如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし 師主知識の恩徳も 骨をくだきても謝すべし」 お寺でのご法座や、研修会のあとにご一緒にご唱和いたします「恩徳讃」という歌であることは、良く知られていることでしょう。先日、当山のご法座の時に、この「恩徳讃」についてお話をさせていただきました。

「みなさん恩徳讃は知っていますよね」とお聞きしたところ、「はい知っています。最後の歌ですよね」と答えた方がいらっしゃいました。確かに最後に歌いますが、「恩徳讃」を終わりの合図と思っているのかな。と思った事でした。

話は変わりますが、昨年私は五十歳の誕生日を迎えました。昭和四十二年6月が誕生日ですが、誕生日がくるたびに、「あなたが生まれた時は水が無くて大変だった。」と、母がよく話していました。六月、すなわち梅雨の季節に生まれたわけですが、私が生まれた「昭和四十二年六月」福岡県は五十年に一度と言われるような「大渇水」の年でした。今の時代と違い、スーパーやコンビニで飲料水が帰る時代ではありません。また、使い捨ての紙おむつや、おしり拭きなどもあるはずがありません。限られた時間と水を使い、家事、育児をしなくてはならなかった母親の苦労を考えますと感謝の言葉しかありません、その母親も四年前にお浄土に還らせていただきました。母のその苦労やお育てが無かったなら、私は今この世に存在していなかったのかもしれません。親の御恩やお育ては、色や形がありません。見ることも触れることも出来ません。親鸞さまは何故、恩徳讃の中に「身を粉にしても 骨をくだきても」と厳しい言葉を使われたのでしょうか。そこには、親の苦労やお育てを忘れてしまう私がいるからこそ、「忘れるなよ 忘れるなよ」と言い続けてくださっているのではないでしょうか。

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