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2019年7月の法話

光明の縁

福山昭思 本願寺派布教使 下川東組 明行寺

山登りの好きな方が迷うことがあります。ある登山家が道に迷うというけれど自分の居場所が分からないことであります。初心者は道が分からなくなったら下へ下へと道を降りるそうです。プロの登山家は山の頂上へと登るそうです。するとあれが九州山脈と自分の居場所が分かるそうです。仏教では人間は迷うているといいますが、「迷う」とはどういう事でしょうか。自分はこれでいいと思っています。それなのに迷うていわれますと何か抵抗せずにはいられません。その自分のわかっていないことを迷いの根本というのであります。これを無明といっております。仏法に遇わせていただくと無明のかたまりを照らしてだんだん本当の自分を分からせて下さるものを光明というのです。むかし中国に賢首大師という方がおられました。その方の華厳経の註釈に仏の智慧のすがたを光明という言葉であらわしたのは『照らす』という意味があるからだと解釈しておられます。私達は自分のことがなかなか分かりません。あるお医者さんがひとの病気は診察するけれども自分が病気になったときには、やはり他の医者に診察してもらわねばなりません。ちょうど眼は外のものは見えますが、自分の眼がどんな形をしているかが見えないのと一緒です。自分の眼を見ることはたった一つそれは鏡に写してみることです。もし鏡というものがなかったら一生自分の眼を知らず終わっていくでしょう。この鏡を持っていることが他の動物に異なる人間の特色です。中国の善導大師は『お経の教えは鏡のごとし智慧のかがやきを増すが故に』といわれています。光明といってもキラキラ光ったものが向こうにあるというのでなく、み法のいわれが私を照らし自身を次第にわからせて下さることを光明に育てられているというのです。その光明は聞くものですから実はみ法のいわれを聞いている事が光明に遇わせてもらっているのだと気がついたら仏の光明を身近に味わうことできるのです。その知らせたものが仏の智慧のはたらきですから一面迷いと知らされ、それを同時に救われていく道も照らしだされているのです。

無碍光如来の名号と彼の光明智相とは無明長夜の闇を破し衆生の志願みてたもう

称名

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