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2019年11月の法話

仏さまと私 ―「ちえ」の見方―

浮島範道 下川東組 安養寺

智慧の光明はかりなし
有量の諸相ことごとく
光暁かぶらぬものはなし
真実明に帰命せよ
(『浄土和讃』/『浄土真宗聖典註釈版(第二版)』p.557)

私の甥っ子と一緒にいた時の話です。甥っ子は2歳の時、大好きなお菓子がありました。そのお菓子は赤ちゃん用に作られている味もほとんどついていないお煎餅でした。そこで私がお菓子と一緒に、あるものをあげることにしました。右手には甥っ子の大好きなお菓子を。そして、左手には10000円札のお金を甥っ子がどちらを取るか楽しみにして持って見せました。甥っ子はどちらを取ったと思いますか?私の甥っ子は一目散に大好きなお菓子に飛びつきました。

皆さんはどちらを選びますか?ほとんどの大人はお菓子ではなく、お金を選ぶと思います。それは、大人がお金という価値を生きていく中で覚えたためです。お菓子よりお金の方が価値があると分別し、そして選択し計算してお金を選ぶのです。その根本にある計算する見方が「知恵」です。この「知恵」をよりどころとして、大人たちは善悪を分別して自分にとっての善を選び、悪を捨てて生活をおくっていくのです。しかし、この「知恵」の見方は仏さまの見方と異なります。

仏さまの教えでは分別する「知恵」ではなく、分別しない平等の見方「智慧」を学んでいくのです。この「智慧」の見方は、私たちの計算するはからいが一切ありません。だから、善悪の分別で選択しない平等の見方なのです。「智慧の光明はかりなし」とは、阿弥陀さまの「智慧」は私たちがはかり知ることはできないという意味を表しておられます。私たちの根本には「知恵」の見方が基礎となっているからです。

阿弥陀さまは、「知恵」の見方で私たちを救われるのでは決してありません。なぜなら「知恵」の救いには善悪の分別、選択が行われてしまいます。要するに、救われる者と救われない者が区別されるのです。親鸞聖人が「凡聖・逆謗斉しく回入すれば、衆水海に入りて一味なるがごとし」と仰られるように、阿弥陀さまはどの様な立場だった者も区別することなく平等にお救いになるとお示しくださっています。つまり、阿弥陀さまは「智慧」の見方で分別することなく平等に私たち1人1人をお救いになられるのです。

この「智慧」のお話しを聴聞させていただくのが法話の醍醐味なのではないでしょうか。世間の講演、テレビ放送とは異なる大事な点なのです。

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