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2021年1月の法話

道俗時衆共同心 唯可信斯高僧説

木村眞昭 本願寺派布教使 福岡組 妙泉寺

「正信念仏偈」末尾のこのお言葉をどう受け止めましょうか。特に「時衆」とおっしゃるのは、何を表しておられるのでしょうか。この「時」とは基本的には末法五濁の世という、仏道を歩むことが不可能な時代に生まれ合わせた絶望の自覚でしょう。また同時にそれぞれ固有の困難さを伴った時代とも受けとめるべきではないでしょうか。この末法であるとともに時代固有の困難のなかに、人として生きることにおいては道人と俗人の区別は意味をなさない。それが「道俗時衆」と呼びかけられている重さです。

私たちは親鸞聖人のように末法の世であることを悲しむ求道心を持ち合わせていません。しかし、今日の「コロナ禍」の中に生きなければならないという苦悩を人々と共有することは可能です。それを乗り超える道を、仏説や七高僧の教えに聞き学ぶべきと末尾におっしゃっているのでしょう。

阿弥陀如来の本願は、すべての生きとし生きるものを極楽浄土に迎えとって、苦悩なき仏の覚りを開かせてくださるのです。それは第十一願の必至滅度の願として誓われてあります。その願いに気づかせるために様々な方便の願が誓われてあるのですが、直前の第十願には「浄土に生れた者は、勝手な思いを起こしていのちを貪り計らうことがないように」とあります。

人類の歴史は、自分たちの都合のよいように大自然を開拓侵略し、他の動植物を勝手に作り変えてきました。地球上に人間の手が入ってない場所はないとまでいわれます。すべては人間の限りない欲望と、更に経済の利潤を上げるためです。その挙げ句が、もともとコウモリを宿主としていた新型コロナウィルスが、他の動物を介して人間に感染し大きな恐怖となっているのです。

七高僧方の教えは「ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし」との法然聖人の教えに帰結しますが、それは単に死んで浄土に往生するだけではなく、私一人の上に集約されている人類の罪業を自覚して、無条件の救いの喜びが深い慚愧の裏打ちを伴っているものだと受けとめます。そのうえで自障障他の歩みから、すべての命との共生に向けた新たな歩みが始まるのです。

阿弥陀如来の本願とは、私たち一人ひとりを救済の目あてに止まらず願生の主体として誕生せしめることにあったのです。

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