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2021年4月の法話

イギリスの寓話に学ぶ

中島法昭 本願寺派布教使 粕屋組 藤圓寺

イギリスのある村にこんな寓話がある。

ある時、その村では神様を祀ることになった。村民が村長の家に集まり、神様を祀るにあたりどのような神様を祀るかを議論した。ある村民が「どうせ祀るならば、人間の願い事を全部叶えてくださる神様がいい」と発言した。この提案に集まっていた全員が賛成し、かくして人間の願い事を全部叶える神様を祀ることになった。

その村には美しい娘がおり、二人の青年AとBが恋をした。ある時、青年Aが神様に「娘と結婚したい」と頼んだ。神様はその願いを叶え、青年Aと娘が結婚した。それを知った青年Bは「青年Aと娘が別れて、私が娘と結婚できますように」と神様に頼んだ。神様は青年Bの願いを叶え、青年Aと娘が別れて、青年Bと娘が結婚した。すると今度は青年Aが腹を立てて、元通り娘と夫婦関係になるように神頼みし、青年Aと娘は再度結ばれる。

こうして娘と二人の青年A・Bとの間で結婚・離婚が繰り返された。それを知った村民たちは怒り、結局村から神様を追い出した。人間お願いをまるごと全部叶える紙などいかんというのだ。実に迷惑なのは神様の方である。

もはやおわかりのように、およそ人間の身勝手な欲望が生み出したのが神の正体に他ならない。人間の欲望には限界が存在しない。人間は自分を中心において行動する。自分の思い通りになれば自分に力があると思いあがり、逆に自分の思い通りにならなければ他人のせいにしたがる。このような人間の根底にあるのが「我執」である。

その人間の我執を絶えず照らし出すのが阿弥陀如来の智慧なのである。智慧は身勝手な私の心を映す鏡に他ならない。いよいよ智慧の鏡に映る私自身の心を顧みて生きていきたいものである。

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