浄土真宗本願寺 福岡教区

MENU

みんなの法話

山内真隆 本願寺派布教使 御笠組 西正寺

 昨年の3月ごろから「コロナと戦い、打ち克つ」とあちこちで叫ばれていました。私たち人間の都合に合わないものは嫌悪し排除していこうというのです。生物学者の福岡伸一さんが、「ウィルスと人間はずっと共進化してきており、ウィルスは人間の生命の一部でもあるので共存するしかない」(コロナと日本人:月刊文芸春秋)と言われますように、私たち人間の思い通りにはなかなかいかないようです。逆にウィルスとの出遇いの苦しみの中にあり、人間のもつ自分勝手な傲慢さ・愚かさ、はたまた不完全さがあらわになったようです。

 さて、浄土真宗は仏さまを拝む宗教ではありません。仏さま(阿弥陀さま)の方から拝まれ願われていた私自身であった、ということをお名号(南無阿弥陀仏)やお経から聞かせていただく教えです。

 親鸞聖人は、その私の姿を「煩悩具足の凡夫」(『歎異抄』)と示してくださいました。凡夫とは、欲深く、すぐ怒り、そねみねたんだりする心が多くて、それが生涯止まらないし、消えない私のことです。そのような私の姿が、お名号(南無阿弥陀仏)の真実の智慧を聞かせていただくことによってあきらかになります。また、それと同時にそんな私だからこそ浄土に救うと願いはたらき続けられる阿弥陀さまのお慈悲が一層喜ばれるのです。

 40年ほど前、私は一人暮らしをしていました。半年に一回ぐらい両親から大きなミカン箱が送ってくるのです。狭い部屋でもあったことから、もう送ってこないようにと、怒って一方的に両親に電話したことがあります。その後、手紙と共に最後のひと箱がまたも送ってきました。手紙には「浜までは海女も蓑着る時雨かな」と書き添えてありました。あとで知りましたが、俳人・滝瓢水という人の、身体をいたわりなさいという俳句です。ミカンでビタミンCをとりなさいと、私の身体を心配してくれる両親の深い思いやりでありました。お恥ずかしいことであります。

 自坊に戻って、お念仏聞かせていただくご縁が多くなりましたが、私自身の凡夫の姿が当時から変わることはありません。ただお名号によって明らかになる私の姿に恥らいつつ、阿弥陀さまのお慈悲にぬくもりを感じてちょっと立ち止まる身に育てられているようです。お慈悲のぬくもりは人生の拠り所となり、さらに阿弥陀さまの智慧によって明らかにされた我が身の恥ずかしさは私の問いとなって、次の実践への歩みとつながっていくようです。有難いことであります。