浄土真宗本願寺 福岡教区

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みんなの法話

田中昭文 本願寺派布教使 鞍手組 願照寺

阿弥陀さまを今は亡き祖母は「うちの親様、親さま」と言っていたのが嬉しく耳に残っています。阿弥陀さまからさずかったご信心。阿弥陀さまからめぐまれたいのち。

 同一念仏(『往生論註』、p.120)だから、お寺のお内陣にご安置されてある阿弥陀さまと、本日お参りされた皆様方のお仏壇にご安置されてある阿弥陀さまは同じ阿弥陀さまです。住む所は違っても、生活環境は違っていても同じ阿弥陀さまに朝な夕(ゆう)なにおつとめさせて頂いています。同じ阿弥陀さまからさずかったご信心です。お正信偈に親鸞さまは「正定之因唯信心(正定の因はただ信心なり・『教行信証』「行巻」、p.206)」と顕わされました。また、『唯信鈔文意』のはじめに「『唯』はただこのことひとつといふ、ふたつならぶことをきらふことばなり(p.699)」ということでしょう。前にもお話しましたように、阿弥陀さまからさずかったご信心は二つもありません。一つなのです。だからこのこと一つというと言われておられるのです。

 阿弥陀さまからさずかったご信心に生きる身体(いのち)とお育てをいただきました。身体と書いて「いのち」とよびます。何故かと言えば、本願寺第8代ご門主蓮如上人の85年間のご持言が「一人にても信をとるなら、身体(いのち)をすてよ。それはすたらぬなり(p.1268)」なのです。ご門主になられた蓮如上人がご巡教の折、お寺のご門徒から「お上人、この村に信仰の厚い夫婦がおります」と聞かされます。すると蓮如上人は、「そうか、ぜひ会いたい」と馬を飛ばされて老夫婦の家に着くと、老夫婦二人はびっくり仰天。老夫婦は「こんなところにご門主さまがお見えになられても、お出しするものはありません」と言う。蓮如上人は「今、おばあさんは何を作っていたの?」「はい、お粥を作っていました!」「そうか!それを出しなさい。」こうして出されたお粥を三人で食べられたという話は有名な話です。その折言われたお言葉が、「一人にても信をとるなら、身体をすてよ。それはすたらぬなり」のご持言です。

 話が変わりますが、今年は世界各国で新型コロナウイルスが大流行し、志村けんさん、岡江久美子さんも亡くなられました。どうぞ外出された際には、帰宅後は手洗い・うがいをお忘れなく実行されてください。同じ阿弥陀さまからさずかったご信心に生きるいのちを大切にされて、ご自愛くださいますように念じてやみません。

※本文中のページは『浄土真宗聖典(註釈版)第2版』(本願寺出版社)のページです。