浄土真宗本願寺 福岡教区

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みんなの法話

藪彰顕 本願寺派布教使 粕屋組 妙福寺

血涙十四年の病床生活は、随分苦しゅうございました。辛うございました。天地も裂けよとばかり慟哭致しました。でも今にして思えばこの血涙があったればこそ、仰臥のまゝ合掌させて頂く日本一、世界一の大仕合せ者でございます。

 

これは私の祖父の叔母にあたる、藪てい子の手紙の一節です。

 

篠栗町妙福寺で生まれたてい子は、周りから「お嬢ちゃん、お嬢ちゃん」と大層可愛がられながら育てられました。そして、九州高等女学校を卒業、東京・上野の音楽学校に入学することが決まりました。しかし、入学直前、まさに幸福の絶頂にあったてい子は背中に違和感を覚えます。急いで病院に行き検査をすると、当時の日本の医療では不治の難病といわれた背中の骨が蝕まれていく「脊椎カリエス」と判明しました。

 

「諸行無常」とはまさにこのこと。家族に愛され、沢山の友達に囲まれ、まさにこれから青春を謳歌しようという時に、難病にかかり、お寺の講師部屋を病室として、ベッドの上から一歩も動くことができない身となってしまいました。やがてその友達も近寄らなくなり、家族とも疎遠に感じるようになり、てい子はたった一人、動くことができないギブスの中で、身もだえしながら幾度も幾度もむせび泣いたそうです。

 

三年経った頃、てい子はある先生との会話の中で、「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」という『歎異抄』のお言葉に出遇います。このお言葉をきっかけに聴聞がはじまり、父をはじめ、多くの先生との厳しい問答の末に「わたしはどうしたしあわせものでしょうか、南無阿弥陀仏…」と言うまでに、てい子の世界は一変しました。

 

「たった一人苦しみ、たった一人いのち終えていくのだ」と悲しむ私のために、「あなたの親はここにおるぞ」と阿弥陀様が久遠劫の昔から喚んで下さっておられ、いつもご一緒して下さっておられたのだと、病苦のこの身このまま阿弥陀様と二人連れしてお浄土へ生まれさせていただく人生をしみじみとよろこばれました。

 

てい子は病苦の中、お念仏と出遇い病苦の中から同じ苦しむ沢山の方に仏法を伝えました。そして享年三十五才、病床十七年、ご往生されるまでお念仏相続に励まれたのです。

 

現在、てい子のご往生された二月十四日を「常称会」と称して、毎年法要を営んでいます。決して他人ごとではありません。お念仏相続に励むばかりです。

 

称 名

 

 

「無碍の喜び」 藪 てい子 作

一、

楽しき青春(はる)の日もしらず

病みて牀上(しょうじょう)十四年

絞(しぼ)りし血涙(なみだ)も今は早や

歓喜(かんぎ)の涙と変(へん)じける

あゝ有難や 不思議さよ

 

二、

※かなてこつんぼのこの耳に

名体(みょうたい)不二(ふに)の呼び声が

まちがわさぬとひびき入り

落(おち)魂(だましい)を摂取不捨(せっしゅふしゃ)

あゝ有難や 不思議さよ

 

三、

一声毎に現わるゝ

生きた仏のまぶしさに

いぶせき病室(へや)も美(うる)わしき

荘厳(しょうごん)成就(じょうじゅ)と変(へん)じける

あゝ有難や 不思議さよ

 

四、

ベッドの上に臥せしまゝ

翼(つばさ)拡(ひろ)げて法界(ほうかい)の

無碍(むげ)の世界をとびまわる

世界一なる幸福者(こうふくしゃ)

あゝ有難や 不思議さよ

 

※二番に差別的表記がございますが、当時作者が病床にて詠んだものをそのまま掲載しておりますことをご了承ください。