浄土真宗本願寺 福岡教区

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みんなの法話

鬼倉龍英 本願寺派布教使 早良組 淨覚寺

数年前のことですが、坊守が長男(当時1年生)を叱っていました。話を聞いていると、どうやら嘘をついていたようです。「あなたからも一言注意して!」という事だったので、向かい合って座りました。

 

坊守は感情的に叱るタイプですが、私は理屈っぽい性格なので、理詰めで話をしていきます。私はこのように話そうと思いました。

 

(私)「嘘つきは何の始まりって言うね?」

(長男)「泥棒」

(私)「じゃあ『泥棒』になりたい?」

(長男)「なりたくない」

(私)「であれば、嘘をついたら駄目よ」

(長男)「わかりました。ごめんなさい。」

 

これが今回の私のプランです。

 

私は長男に言いました。

 

(私)「嘘つきは何の始まりって言うね?」

(長男)「・・・・・???」

 

何と長男はこのことわざを知りませんでした。そして、キョトンとした顔をしながらしばらく考えて、このように言ってきました。

 

(長男)「・・・・・人生?」

 

まさかこのような言葉が返ってくるとは思ってもいませんでした。

しかしながら、どうでしょうか。私の人生を振り返ると、人生を生き抜くうえで、大なり小なり多くの嘘をつき続けてきました。

 

『嘘つきは人生の始まり』

 

どうやら娑婆を生きるという事は、嘘をつかずして生き抜くことは難しいようです。

私が「なるほど、、、」と感心をしていると、坊守から「ちゃんと叱ってよ!」と逆に怒られてしまいました(笑)

 

親鸞聖人は仰せになりました。

 

「『凡夫』というふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえず」(一念多念文意)

 

「凡夫」とは、命終わるその瞬間まで、煩悩から離れられないものを言います。すべてのことを私中心にみて争いをおこし、欲望・怒り・妬みに、心と身体を悩ませ苦しみ続けます。

 

その苦悩の中で生きている「凡夫の私」のために、阿弥陀如来は「かならず救う、我にまかせよ」と誓いをおこされ、その「如来の本願」をお釈迦さまは『大無量寿経』に説かれました。

 

そして、大いなるお慈悲の中にありながら、煩悩に眼を遮られて、背を向けてしまっている私であっても、あきらめることなく照らし続けてくださっている、阿弥陀如来の救いのよろこびを顕かにしてくださったのが、親鸞聖人でありました。