無量の慈悲につつまれて
寺田公洋 本願寺派布教使 早良組 真教寺
随分前のことですが某寺院からの布教の縁を賜り出講していた時です。
福岡市天神のバスセンターから某寺院へ行く時、バスの待ち時間がありましたので椅子にこしかけて待っておりました。すると、2、3席離れた所にお母さんらしい人と、小学校4、5年生くらいの男の子、弟らしい1、2年生くらいの男の子がバスを待っているようでした。
兄の方にしきりにお母さんが話しかけています。
聞いていると「お婆ちゃんのところに行ったら、ちゃんと言われたことを聞かんといかんよ」「毎日宿題をせんといかんよ」「おなかを冷やさんようにね」、といろいろな事を子どもに向かって言っているのですが肝心の子どもは漫画の本を読みふけって「ふん、ふん」とうなづくばかりです。
お母さんがあまりにも子どもに言い続けるので、何気なく子どもを見ると、胸のところにゼッケンのようなものを首から下げていますので何か見ると、
一番、お婆ちゃんの言う事を聞く
二番、毎日宿題をする
という事が書かれてあります。
想像ですが、ちょうど夏休みの時期でしたから、親元を離れ、お婆ちゃんの所に行く子どもの事が気がかりで口をすっぱくして言い、それでも不安なのでメモをして首から下げさせたのでしょう。
子どもが乗るバスがくると、お母さんは運転手さんに「この子を〇〇のバス停で降ろしてください」。運転手さんは「〇〇ですね、分かりました。」バスが動き出すと見えなくなるまで見送っていました。
いや、バスを見送るのでなく、バスに乗った我が子を見送っていたのでした。
その姿を見た時、阿弥陀様のはたらきも一緒だと味わった事です。
正信偈の中には、「 煩悩鄣眼雖不見(ぼんのうしょうげんすいふけん) 大悲無倦常照我(だいひむけんじょうしょうが)」とあります。
煩悩(ぼんのう)、眼(まなこ)を障(さ)へて見たてまつらずといへども、大悲、倦(ものう)きことなくして、つねにわれを照らしたまふといへり(『註釈版聖典』P207)
無量の慈悲につつまれて、煩悩の身である衆生を必ず仏にせずにはおれない手立てとして48の願いを起こされ、煩悩のために地獄一定すみかぞかしの身を仏とさせていただくのが阿弥陀様のはたらきです。
合 掌