うつろいゆくわたし
川﨑潔 本願寺派布教使 怡土組 長楽寺
「あの大きな銀杏の樹齢はどれくらいですか?」
お寺へ参拝されたご門徒の方に度々尋ねられます。私は
「おおよそ300年ぐらいと聞いています」と答えるようにしています。
私がお世話になっているお寺の境内には大きな銀杏の木があります。家族や親戚の誰に尋ねてみても正確な樹齢はわかりませんが、おおよそ300年ほどだそうです。
桜の見頃が終わりを迎えるとき、この銀杏の木の新芽が顔を出し始めます。もうしばらくすると新緑が一層美しくなります。この季節の銀杏が私は一番好きです。
一昨年の暮れより、老朽化した本堂の建て替え工事が始まり、本堂が取り壊されました。それにより今では境内の中ではこの銀杏が一番古いものになりました。解体される本堂のすがたに少し寂しい気持ちになりながら、これからもこの銀杏がそのいのちを終えるまでお寺の歴史を見ていてくれるだろうと思いました。そしてふと、その時には自分のいのちはどうなっているだろうかと考えました。
私たちの日常の周りを見渡しても、様々なものの移りかわりを感じることができます。その姿に自分のいのちを重ねながら、時には自分のいのちの行く末を考えてみることは必要なことではないかと思います。死に思いを巡らせること、それはつまり自分自身の生きる意味やこれからをどう生きるかを考えることとなるのではないでしょうか。
普段は生きていくことばかりを考えて、目先の忙しさや、めでたいもの、楽しいものの方にばかり目を向けて、自分のいのち終わりのことはあまり深く考えません。しかしどこかに死に対する不安ずっと抱えながら、生きているのが私の相であります。
この私のいのちの問題を、私に先立ち解決して下さったのが阿弥陀様です。私のあり方をご覧になり、放ってはおけない、救わずにはおけないとご心配下さいました。私に変わりなさいとは仰らず、「あなたを救える仏となります」という願いを打ち立てて下さいました。そしてその願いの通りに南無阿弥陀仏の声の仏様となって「あなたの命は死んで終わりじゃない、浄土に生まれる命なのだよ」と至り届いて下さっています。私のところに来て下さいますから、一人ではないのです。浄土に向かう阿弥陀様とご一緒の人生を歩ませていただくことであります。