浄土真宗本願寺 福岡教区

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みんなの法話

郡島朋昭 本願寺派布教使 那珂組 光照寺

先日、犬の散歩で普段は通らない公園を通り抜けてみようとした時のことです。少し離れた砂場でお母さんと子どもたちが遊んでいました。

犬の姿を見つけた女の子が駆け寄ってきて、私と犬から一メートルほどのところに座り込み犬をじっと見つめています。

私が「犬が好き?」と訪ねると「好き!」と元気の良い返事です。一緒に遊んでいた弟と妹も呼び寄せて三人で興味津々です。

少し時間もたち、「間が持たないなぁ何か良い話題はないかなぁ・・・。」と思い始めた頃。突然に「○○ちゃん、四歳です!」続いて「この子は二歳、こっちの妹は一歳です!」と弟妹まで含めた自己紹介を始めてくれました。

思うに、彼女なりにその場で何かお話をしなければいけないと必死に考えてくれたのでしょう。

会話を楽しむという意味では拙い会話の技術であったかもしれません。ですが、その時間で自分にできることを精一杯考えてくれた姿はほほえましく、そして上手な会話をしようとしていた私には少し眩しいものでした。

 

 

親鸞聖人は阿弥陀仏のはたらきを「不断光」と喩えられました。阿弥陀仏は何時いかなる時も私と共に歩んでくださいます。そのことを断たれることのない光に喩えられたのです。

何時いかなる時も私と共に歩んでくださるとは、私のいのちが常に認められ肯定されていくということです。

常にいのちを肯定されるからこそ、何かに評価されることを恐れずに日々の生活を送ることができるのです。

阿弥陀仏の救いの喜びは、自身が願ったとおりに上手に生きることのできる喜びではありません。自身が願われていることに気が付いてゆくことによって、出逢ったものに真摯に向き合って生き抜くことのできる喜びです。

あの日の公園の女の子のように、出逢ったものに精一杯向き合って生きて行こうと阿弥陀仏に願われている身として改めて思うところでした。