浄土真宗本願寺 福岡教区

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みんなの法話

大蔵 誠道  本願寺派布教使 志摩組 法正寺

あるところに二人の医者がおりました。一人を玄周さん、もう一人を寿閑さんといいます。二人はとても仲が良かったのですが、大きく違うところが一つありました。玄周さんは日々お念仏申す日暮らしをされておりましたが、寿閑さんは宗教的なことに全く関心を抱かない人でした。玄周さんが阿弥陀様のお慈悲の温もりを伝えようと懸命に手を尽くしましたが、寿閑さんの耳には響きませんでした。

 

しかし、ある時に寿閑さんの娘さんが重い病気にかかります。医者の眼から見ても完治は難しい状況でした。何とか隠そうと平然を装っておりましたが、人知れず涙を流す寿閑さんの姿がそこにはありました。そして、臨終の時。重苦しい息をしながらベッドの中の娘さんが一つのことを尋ねます。「お父さん、死んだら私はどうなるの?」と。寿閑さんは言葉に詰まりました。今まで全く気にしたことがなかったからです。必死に頭を巡らせて玄周さんの言葉を思い出しました。そして、「お浄土に往くんだよ。また会えるからね。」と答えました。すると、「どうしたらお浄土に往けるの?」と娘さんが聞き返します。再び玄周さんの言葉を思い出しながら、「阿弥陀様が連れて行ってくれるから心配しなくていいんだよ。一緒にお念仏しようね。」と答え、共に なんまんだぶつ…とお念仏申しながら娘さんは安らかに息を引き取りました。それからというもの、ひたすら聞法に励む寿閑さんの姿がありました。今まで全くお念仏申すことのなかった寿閑さんでしたが、娘さんのいのちの中からお念仏申すご縁を賜ったのです。

 

今、悲しみの真ん中にいる者に生き方が示せるでしょうか?生き方を示さず、「そのまま救う」ということこそお慈悲ではないでしょうか。阿弥陀様は私たちの姿を苦悩の有情と見抜かれて、『なもあみだぶつ』の声となり至り届いて下さいました。その願いの始まりからお仕上がりに至るまで、私のことで始まり、私のことで仕上がって下さったのです。今、この身、このままが阿弥陀様のお救いの目当てであります。そして、お念仏の声は広大な阿弥陀様のお慈悲の表れです。