信じるということ
浮島範道 本願寺派布教使 下川東組 安養寺
「信じる者は救われる」という言葉があります。果たして、親鸞聖人がお説きになられた阿弥陀さまの救済に、この言葉は当てはまるのでしょうか?
阿弥陀さまが救う大仕事をされるから、私たちはその阿弥陀さまのお救いを信じるだけでいい。一見何の問題もないようにみえます。しかし問題は、「信じるということ」です。阿弥陀さまは「信じるということ」を私たちの方の仕事として課題とされたのでしょうか?
いいえ、阿弥陀さまは「信じるということ」を私たちの救われる条件とされません。信じなければ救われないとおっしゃらないのです。
それでは、「信じるということ」はどういうことなのでしょうか?それは、阿弥陀さまを「雑行雑修自力のこころ」で信じようと力むことではありません。つまり、阿弥陀さまに救われようと必死に「つかまる」ことではないのです。
例えば、母猿に置いていかれまいと必死につかまる子猿を想像してください。子猿が必死につかまっているのは、もし自分でつかまらなければ置いていかれるという不安と母猿に対する疑いがあるからです。要するに、私たちの信じようと「つかまる」ことには阿弥陀さまのお救いに対する不安と疑いの心が無意識の中に隠れているのです。
だから、私たちは子猿のように自分で信じ「つかまる」のではなく、ただ阿弥陀さまにおまかせして「つかまれる」だけでいいのです。
例えば、母猫が子猫を移動させようとしているところを想像してください。母猫は子猫の首根っこを甘噛みし、子猫の思いに関係なく連れて行きます。子猫はつかまろうと力むことなく、ただ母猫に身をまかせているのです。もちろん、子猫には置いていかれる不安も疑いもありません。
「信じるということ」は子猿のように「つかまる」ことではなく、子猫のように「つかまれる」ことだと言えます。私が信じるから救われるのではなく、阿弥陀さまが必ず助かると信じてくださっているから、私たちは救われるのです。
救われる根拠は私の信にはありません。阿弥陀さまが助かると信じてくださっている安心の心が私に映る(移る)こと、その安心の心が信心なのです。「如来よりたまわりたる信心」こそ他力の信なのです。