浄土真宗本願寺 福岡教区

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みんなの法話

椿 教信  本願寺派布教使 粕屋組 真覚寺

この度、七高僧の曇鸞大師、道綽禅師、善導大師縁(ゆかり)のお寺で、浄土宗・浄土真宗にとっても大変ご縁の深い石壁山・玄中寺へ参詣する為に中国へ行ってまいりました。

 

現地では擦れ違う現地の人から「オニイサン、ニッポンジン?」と何度も声をかけられました。ガイドさんから「お土産を買うときにはよく注意をして」とアドバイスを受けていましたので、日本人観光客と覚られないよう振る舞ってみるものの、すぐに見抜かれてしまいます。外見は現地の人とほとんど変わらないのに、何が違うのかガイドさんに尋ねてみると「日本人は、頷きながら会話する」と指摘されたのです。なるほど、日本人は相手が見えない電話であっても頷いている、と思わず頷いてしまいました。自分ではなかなか気付かない事も指摘されれば「なるほど」と頷くことがあります。

 

世間では「人を見る目を養う」ということがいわれます。人間ウォッチなどと称して他人を観察し、その行為をあざわらう人もいるようです。しかし、他人の人間性を見抜くということがどれだけ出来るものでしょうか。「まさかあの人にかぎって」あるいは「あんな人にもこんな良い所が」と驚くことは度々です。それどころか他人を見る事はできたとしても自分自身を見つめることがなかなか出来ない私であります。そんな私が親鸞さまに指摘され「なるほど」と頷くこと、これが聞法だと思います。

 

そこで“私が世間からどの様に見られているのか”を問題とするのではなく、阿弥陀さまからどう見抜かれているのかを大切に受けとめるべきではないでしょうか。世間の目をあまりに気にしすぎると民意・世論に振り回され、人の噂に惑わされてゆきます。私は民意・世論に耳を傾けながらも仏教徒として、念仏者としてどのように在るべきかを仏法の中にきいてゆくべきだと思うのです。或いは仏法を鏡として自分自身の真実の姿に目を向けてゆく事。親鸞さまは常に阿弥陀さまの眼を通し、私がどのように見えているかをお教え下さっています。例えば『歎異抄』の一文「さるべき業縁のもよほさばいかなるふるまひもすべし」等と。

 

曇鸞大師が「煩悩具足の凡夫でもこの信心を得たなら、仏のさとりを開くことができる」(『教行信証』現代語訳)とお示しのように、何をしても完全とは程遠いお粗末なこの私を、阿弥陀さまは見捨てることなくお救い下さいます。そのみ教えを七高僧さまをはじめ多くの先達の方々がお伝え下さったことに玄中寺へ参詣の中、改めてお念仏申させて頂いたことでした。

 

合 掌