浄土真宗本願寺 福岡教区

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みんなの法話

花田 照夫  本願寺派布教使 西嘉穂組 長明寺

ある大雪の日の朝。

境内に出ると、早朝に納骨堂へ参詣されたのでしょう、雪の中に足跡が一筋ありました。

(こんな雪の朝に…なもあみだぶつ)

雪が残してくれた足跡に思わず手が合わさりお念仏がこぼれました。

 

有名な道歌に「欲深き 人の心と 降る雪はつもるにつけて 道を忘るる」というものがあります。これは「雪」を「人の心の欲(煩悩)」と重ね、それに心を惑わされることを戒めた歌ですが、確かに煩悩を戒めることは非常に大切なことでありましょう。

しかし、源左同行が「煩悩は借り物ではありません」とおっしゃったように、煩悩とは私達一人一人の存在に染みついたものです。だから単純に、「煩悩を消しましょう」「はい、消せました」…とはならないのです。

 

浄土真宗とは、この煩悩具足の私の全てを見抜き、その上で必ず救うと願をかけて下さった阿弥陀さまの心をそのまま頂いて歩む仏道です。

「あなたの全てを見抜きました。あなたをお浄土に必ず迎えとります」という阿弥陀さまのお心がそのまま響いた「私の全ては阿弥陀さまに見抜かれました。私はお浄土に生まれる者でありました」が、阿弥陀さまから頂きものの御信心。

そこには、この私を決して離さない阿弥陀さまの真実に対する「誠なる哉」と、その慈悲の世界に対する「慶しき哉」と、そして、自らの煩悩性に対する「悲しき哉」とが同時に一つの南無阿弥陀仏として成立するのであります。才市同行の「煩悩も具足、お慈悲も具足、具足づくめのなもあみだぶつ」がつくづくありがたく味わえます。

 

「南無阿弥陀仏」…それは我が煩悩の雪の上に残される一筋の仏の足跡でありました。

 

合 掌