浄土真宗本願寺 福岡教区

MENU

みんなの法話

西村 達也  本願寺派布教使 東筑組 西法寺

私が大学に入って間もない頃、初めて煩悩という言葉を辞書で調べました。そこには「私の身を煩わせ、私の心を悩ませる、私の心のはたらき」とありました。もっと端的にいうと、「私を苦しめるもの、それは他でもない、私自身である」ということでしょう。これには驚きました。これまで、そんなふうに考えたことが無かったからです。これまで、「俺を苦しめるものは、あいつや」とか、「あいつさえいなかったら、こんなことさえなかったら、おれは苦しまなくていいのに」としか、考えることができなかった私にとっては、たいへんな驚きでした。

 

煩悩について、親鸞聖人のお言葉には、「人間というものは煩悩がこの身に満ち満ちて、欲も多く、怒り、腹立ち、そねみ、ねたむ心、多く、絶え間なく、死に臨むその時にいたるまで、止まらない、消えることがない、尽きることが無い」とあります。

 

では、その煩悩は何によって生れるのか? それは、我執。つまり、自分の考えに固執し、自分の思い通りにしたいという、私の命の中に燃え盛る、止まることの無い欲求から起るのです。

 

ずいぶん前のことですが、あるおばあちゃんが、お寺に来て、それこそ、怒り腹立ちの思いの丈を、私に明かされました。何の話かと言うと、お嫁さんのことでした。まあこれは、古今東西、永遠のテーマでしょうが。人生の先輩に対して、若い私にはアドバイスの言葉は見つかりません。ただただ、「そうですね、そうですか、そうですね、そうですか…」何回言ったかわかりませんが、話を聞いていました。もう30分くらいたったでしょうか。そのおばあちゃんが、最後に言われた言葉が、忘れられません。「あーあ」と溜息をついて、「わしも我が強いですなあ」と言ったのです。私も思わず「そうですね」とうなずいてしまいました。他人事ではないですね。人間は自分の我の強さで、自分を苦しめるのですね。そのおばあちゃん、自分で自分の姿に気づかれて、来た時とはまったく違い、心穏やかに帰って行かれました。

 

自分の考えに固執する時、心の眼は閉ざされ、大切なものを見失い、幸せの中にありながら、その幸せが感じられなくなります。『煩悩という教え』は、自分自身がわからず、ただ感情に振り回されて、もがいていた私に、自分自身の本当の姿を気づかせてくれました。

 

合 掌