浄土真宗本願寺 福岡教区

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みんなの法話

中山 信之  本願寺派布教使 西嘉穂組 光妙寺

親鸞聖人750回大遠忌法要(団体参拝)では、私の寺からも26名の方が組の一員として参拝され、内15名の方が帰敬式を受けられました。法名を受け「釋○○」を名のるのは、私の生き方を問い直し、仏法をよりどころとした生き方へと転換する契機であり、御同朋・御同行の思いに立つ良い機縁だったと皆さんと喜びを共にしたものです。

 

ところで、私は3月1日~11日にカトマンズ本願寺開所式・インド仏跡参拝に多くの教区の方々と寝食を共にしましたが、インドからタイ経由の帰途で浄土真宗で良かったなあという思いを抱いたことを披露します。

 

南方では黄の衣のお坊さんが優遇されている(優先席)のは或る程度知っていましたが、まさかという思いの事件が起りました。飛行機に乗り、荷物・シートベルトの点検をしていると、日本の老婦人が怒って我々のところへ来られました。何事かと問うと、タイのお坊さんの隣に坐ろうとすると、坐席チケットがあるにも拘らず、お坊さんから“ここにはあなたは坐れない”と云われ、添乗員・客室乗務員があわてて席の交代を要求したというのです。修行中の出家僧の斎戒だとしても今の日本では考えられないことで、そのご婦人は割り切れない思いだったようです。

 

その時、彼女の寺の住職から「四河海に入れば元の名なし、四姓沙門に帰入すれば斉しく釋氏を称す」(『増一阿含経』より)の文をいただかれ、親鸞様のご門徒でよかったと安堵されていました。

 

南方の仏教はそのものが生活に根着いており、お坊さんも尊敬の対象ですが、戒律の厳格さは平等思想に欠く感があります。初期の釈尊のサンガの理念と離れているのでは? との思いもありました。日本でも「男女三才にして席を同じうせず」の考えがまだ残存している昨今、三帰依文を唱和して、仏弟子となる、即ち釋氏の一員となることの意義、そして多様な価値観を認め合える念仏者となっていくことの重大さを再度痛感させられた旅でした。

 

合 掌