浄土真宗本願寺 福岡教区

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みんなの法話

浮島 範道  本願寺派布教使 下川東組 安養寺

私の中学生時代は、クラブ活動の野球に専念していました。勉強の方はというと成績も良くなく、本当に苦手でした。このような私に対して、私の姉は勉強が良くできていたのです。特に、家で勉強をしているような様子はないのに成績がよく、生徒会でも活躍をしていました。そうすると、私と姉を知っている先生は、私と姉を比べるのです。学校の先生の基準は、どうしても点数として出てしまう成績を無視できないみたいでした。姉と同じ担任の先生についた時、「お姉さんは勉強ができていたよ!」と言ってくるのです。勉強がよくできて成績がよい姉と、勉強ができず成績が悪い私を比べたりするのです。

 

しかし、家に帰るとどうでしょうか? 私の母親は、勉強ができる姉も勉強ができない私も「等しく」同じように接してくれます。私が勉強をできなくても、姉と比べることなく可愛がってくれるのです。姉の成績に比べ、私が悪いのは明らかです。しかし、母は勉強の成績が悪くて注意をしてきたことなど一度もありません。学校を休まず皆勤していることや、クラブ活動を頑張っていることなどを認めてくれていたのでしょう。私は私としてのあり方を認めてくれていたのです。

 

母は、どちらか一方を可愛がるのではなく、私のことも姉のことも、どちらも自分の子供として見てくれていたのです。表面的に身につけた知識や肩書き、そのようなものを見ないで、私と姉のことを自分にかけがえのない子供として見てくれているのです。母親は、ただ「子供」としてみるのであって、「勉強ができる子供」「勉強ができない子供」など「子供」以外の言葉を全部とってしまっているのでしょう。私を私のままで認めてくれるのが、母の心だったのです。母親は海のように広く深い心を持ち、私と姉を同じように受け止めてくれます。

 

親鸞聖人は、「凡夫も聖者も、五逆のものも謗法のものも、みな本願海に入れば、どの川の水も海に入ると一つの味になるように、等しく救われる」(『正信念仏偈』現代語訳)とお示し下さっています。ここでは、自己中心的な心に縛られていた者も、自分の知識や徳を高めてきた者も、また、仏のみ教えを疑い悪く言った人も、自らの力に頼る心が転じられ阿弥陀さまにおまかせしたならば、皆が等しく救われるとおっしゃっています。

 

さまざまな背景をもつ人間がいるように、川の水にも濁っているものや澄んでいるもの、さまざまな川があります。そのような背景を、一切差別しないものが本願の海であります。本願の海にさまざまな川が流れ込んでも、一つの海水として迎えられていくのです。それはまた同時に、差別がなく平等でありながら、それぞれが個性を認め合い輝ける世界を表現しているのではないでしょうか。

 

合 掌