お彼岸には何をしますか?
髙田 史敬 本願寺派布教使 早良組 栄福寺
「暑さ寒さも彼岸まで」の「お彼岸の中日」が9月23日の秋分の日です。「彼岸」とは季節を表す言葉ではなく、「お浄土」を表す仏教用語です。私たちの住む現実の世界「此岸」から、阿弥陀さまの極楽浄土「彼岸」へ到る道を尋ねていくことが本来の意味であります。
『阿弥陀経』というお経に、
これより西方、十万億の仏土を過ぎて世界あり、名けて極楽といふ
とあり、阿弥陀さまの極楽浄土(彼岸)を西の方角で表すようになりました。春秋の彼岸の中日は太陽が真西に沈んでいきます。先人の方々は、この日真西へ沈む夕日に極楽浄土を重ね合わせ、彼岸の日と呼ぶようになったようです。この中日から前後三日をいれた七日間をお彼岸という仏教週間となるのです。
この七日間は六道を超える七日間とも言われています。六道とは、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の事です。自分の思う通りにならないからといって腹を立て、奪い合い殺し合って地獄に行き、自分の気にいったものが手に入ると「まだ欲しい、欲しい」「まだ足らん」で餓鬼道の世界に行き、「今が楽しければそれでいい。人の事なんて知るものか」と畜生の世界へ行ったと思えば、時には親子ともいがみ合って修羅に行く。他人の身になったかと思うと、いつの間にか自分が可愛い、自分が正義だと思い込むのが人間の世界。自分の思い通りにいって有頂天になっているのが、いずれまた落ちていく天上界。
『歎異抄』の 第十三条に
人はだれでも、しかるべき縁がはたらけば、どのような行いもするものである
とあります。縁あればどのような世界にでも行ってしまう私たち凡夫は、六道を超えて「彼岸」に行くどころか、今このとき「此岸」で六道をぐるぐる回りながら、苦しみ悩む人生を送っているのです。
親鸞聖人は『教行信証 行巻』に
わたしたちは現に迷いの凡夫であって、罪のさわりが深く迷いの世界をさまよい続けている。その苦しみはいい尽くしがたい。今、善知識に遇って、阿弥陀仏の本願に誓われたお名号を聞くことができた。
と述べられています。
親鸞聖人は縁あればいかなる世界にでも行ってしまう私が、その苦しみ悩む中に様々な方の縁によって、阿弥陀さまの願いを聞くことができたと慶ばれています。阿弥陀さまは、「此岸」で苦悩の人生を歩む私たち凡夫に、休むことなく願いをかけ続けています。
『阿弥陀経』には、
その土(極楽浄土)に仏まします、阿弥陀と号す。今現にましまして法を説きたまふ。
阿弥陀さまは、どこか遠い所で説法されているわけではなく、いまここで現に悩み苦しむ私たちに法を説いておられます。「苦悩の人々よ、我にまかせよ、必ず摂りて必ず救う」という阿弥陀さまの願いは「なもあみだぶつ」の喚び声となって、いまここに届いているのです。
私たちも、阿弥陀さまと、阿弥陀さまの極楽浄土「彼岸」に先に生まれて仏さまとなられたご先祖様のおはたらきによって、合わぬ両手がいつしか合わさり合掌の姿となり、口を開けば愚痴しか出なかったこの口から「なもあみだぶつ」のお念仏がこぼれでてくださるようになりました。お念仏申す身となった私たちも阿弥陀さまのお浄土「彼岸」、娑婆世界の苦悩から解き放たれた悟りの国に生まれさせていただけるのです。
このお彼岸の七日間は、間違いない目的地「彼岸・お浄土」をいただき、ご縁ある方の導きに感謝すると同時に、悩み迷い続きである今ここに生きている私にはたらき続けて下さる、阿弥陀さまのお話を聞かせていただくご縁とさせていただきましょう。
合 掌