浄土真宗本願寺 福岡教区

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みんなの法話

北嶋 文雄  本願寺派布教使 夜須組 光蓮寺

苦悩は、どこから起るのでしょうか。その原因は、事実を事実の通りに受け取らない心にあります。事実を事実の通りに受け取ることに、苦悩はありません。

 

ところが、阿弥陀さまは、事実を事実の通りに受け取れない者がいることを知り、その者を「凡夫」とよばれました。凡夫とは、心が弱く劣っており、涙しながらしか生きられない者のことです。それは、誰のことかというと、私たちのことだったのです。阿弥陀さまは私たちを、憐れみを込めて「凡夫よ」とよばれたのでした。

 

まことに阿弥陀さまの仰る通り、私たちは弱々しい存在です。どうにもならない事と頭では分かっていても、この身が納得できずに、悲しみや苦しみを引きずりながら日々を過ごしています。

 

愛しい者が亡くなれば、人知れず涙に暮れ、時がたっても愛しい者の死を受け入れることができません。辛い出来事に遭えば、あまりにも過酷な現実に生きる意欲まで奪われて、とてもその現実を受け入れることができません。ましてや自分が死ぬとなれば、目の前が真っ暗になり不安でたまらず、とうてい死を受け入れることができません。まさに私たちの人生は、苦悩そのものです。

 

阿弥陀さまは、このような私たちを憐れみ悲しまれ、おさとりの世界にじっとしていることができずに、はてしない苦悩に沈む私たちのところに来てくださいました。

 

念仏詩人の榎本栄一さんが、うたわれた詩です。

 

行き詰まってうごけぬので

うごかずにいたら

阿弥陀さまもここで

私といっしょに

うずくまって御座った

(『常照我』樹心社)

 

阿弥陀さまはどこにいらっしゃるのかといえば、今ここにいらっしゃいました。この苦悩の世界が、お慈悲の現場だったのです。そのお慈悲は、響きとなって私たちの上に現れてくださいます。ナマンダブツと私に称えられるすがたになって、苦悩の人生をご一緒くださるのです。

 

合 掌