浄土真宗本願寺 福岡教区

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みんなの法話

北原 光昭  本願寺派布教使 鞍手組 覺圓寺

病気、歳をとることの不安、死ななくてはならない私のいのちに対して、心配しながらも「私だけは、大丈夫」と思い込んできた私に、「明日はわが身」と、語りかけるものがあります。

 

私たちの人生は、「いつ、どこで、何が起こってもおかしくはない」というのです。「人生の三つの坂、上り坂、下り坂、そして まさか」とのことばが、お寺の掲示板に貼られていました。

 

それは、この身に受けなければならない突然の人生の悲しみや不安をこの私が受けとめていくしかないというものでした。信仰のあるなし、心がけの善し悪しにかかわらず、この身に担っていかねばならない事実なのです。

 

そのことをお釈迦さまは、「人生は苦なり」「無常なるものは苦なり」といわれています。時々刻々、変化して止むことがない毎日にも気付かないまま歳をとっているこの私に対して、私自身についても、私の生きている環境についても、すべてが「こわれもの」として、見つめていくことが、仏教の出発点なのです。

「無常」という言葉は、二つの意味があるようです。一つには、すべてのものは壊れゆくということ。もう一つは、壊れるものであるから、今ここにあるということの尊さに目覚めていこうということ。お釈迦さまは、「人の世にいのちを受くることは難く、やがて死すべきものの、今、いのちあるはあり難し」といわれました。仏教でいう無常は、滅びの美学を説くのではなく、「いま、いのちの不思議」に寄り添ってくださるみ教えなのです。

 

今から751年前、親鸞聖人が88歳の時、多くの人が飢饉等によって亡くなった時、悲しみに戸惑う念仏者へ「生死無常のことはり、くはしく如来の説きおかせおはしまして候ふうへは、おどろきおぼしめすべからず候ふ」(『親鸞聖人御消息』16 注釈版聖典771頁)とお手紙にしるされました。私にとっては臨終の善し悪しではなく、壊れることのない、阿弥陀如来の教えをよりどころとして生きてゆくことを伝えられました。

 

合 掌