浄土真宗本願寺 福岡教区

MENU

みんなの法話

林 安明(前 福岡教区教務所長)

元気で長生きしたい、お金があったら、楽がしたい…日々、私たちはさまざまな願いをかかえて人生の旅路を終点に向かいます。かぎりのある命であることは誰もが知っていますが、日常生活の中でそのことに真剣に向き合っているかというと、多くの人が「今さえよければ」「なるようにしかならない」と思っているのが実際ではないでしょうか。実感できる現実だけを頼りとする現代人にとって大事なのは「今」であり、その今がなくなってしまったら「死んだらおしまい」と、あきらめるしか方法はないようです。

 

しかし、今が本当に大事であるためには、一度きりの人生が「死んでもおしまいにならない」ように、確かなよりどころが必要なはずです。お釈迦様は「死んだらおしまい」という人生の小さな殻に閉じこもり、真のいのちのよりどころ(帰依処)を求めようとしない“常識”を生きる私たちに、「人はなぜ、道を求めないのだろうか。なにを期待して生きているのだろうか」(仏説無量寿経意訳)と、問いかけてくださいます。

 

浄土真宗を開かれた親鸞聖人はその問いかけを「光明は智慧なり」(唯信抄文意)と受け止められました。光には闇を照らし出す働きがあります。現実だけを信じる私たちは、闇の中にいながら闇と気付かない存在であると言えましょう。光明(如来様の浄土の光)はその闇を照らす智慧の光であり、その光に照らされることによって、私たちがかたくなに信じている「今」の願いも努力も、いつかは来るはずの死の前ではなんの役にも立たないと知らされます。

 

それに対して聖人は、「信心の定まるとき往生また定まるなり」(親鸞聖人御消息)-その頼ることのできない私の人生が実はすでに如来様のお慈悲の中にあったと目覚める時、苦悩と悲しみに涙して不安と絶望におののくままに、これを乗り越えることのできる安らぎのある人生が開けるんだよと、教えてくださいました。

 

何も頼りにならないとあきらめていた人生に浄土の光が差し込んで真実のよりどころが与えられるところ、その浄土の光に照らされて生きる者(念仏者)は、死がもはや単なる物理的な消滅ではなく新たな「生」のはじまりであることに気付かされます。「死んだらおしまい」と人生をあきらめて終えるのか、「死んでもおしまいにならない」いのちを精一杯生き抜くのか、ここに私たちの人生の分かれ道があると言えましょう。

 

合 掌

 

※肩書は当時のものです