浄土真宗本願寺 福岡教区

MENU

みんなの法話

木村 眞昭  本願寺派布教使 福岡組 妙泉寺

ひとつずつ無明を捨てていく果てに空に満つるは慈悲のこころか

 

これは生命科学者の柳澤桂子さんの歌です。

 

柳澤桂子さんは、将来を嘱望された最先端の生命科学者として遺伝子研究を重ねられていた31歳のとき、原因不明の病気で倒れられました。毎月一度周期的に襲ってくる激しい嘔吐と腹痛、頭痛や目まいによって研究生活を諦めなければなりませんでした。この四十年間の苦しみと孤独のなかで、多くの哲学や文学、宗教書を読み、また生命科学者としても多くの本を書いてこられました。

 

この方が般若心経を自分で現代語訳された『生きて死ぬ智慧』(小学館 2005年)という本を出版され、ベストセラーとなりました。そこには絶望的な病気の苦しみをくぐり抜けた、冷静な科学者の目で、「色即是空・空即是色」といわれる仏教の真理が美しく述べられています。

 

あとがきにはこう書いてあります。

 

このように宇宙の真理に目覚めた人は、物事に執着するということがなくなり、何事も淡々と受け容れることができるようになります。これがお釈迦さまの悟られたことであると私は思います。現代科学に照らしても、釈尊がいかに真実を見通していたかということは、驚くべきことであると思います。

 

また柳澤さんは、苦しみのなかにあって、深い生命観に立った素晴らしい短歌を作っておられます。読むと静謐な宗教性を感じます。

 

悲しみの 満ちみちてくる わが内の 広き隙間を 心というか

やわらかき 冬の光が 身にしみて いきよいきよと われを温む

我ひとり 生き重ねしを 罪のごと ふぶく桜に 身をまかせおり

 

是非、手にとってお読みください。

 

さて、私たちが帰依する親鸞さまの教えは、「色即是空・空即是色」とは表現されませんが、仏の悟りの世界を生きとし生きるすべてのものに届けて、だれでもが苦しみから離れて安らかであるようにしてやりたいと願われている、阿弥陀如来の世界です。

 

その阿弥陀如来の願いは、私たちを目あてとして、私たちに先立つ願いですから「本願」といいます。その本願は、具体的な働きとして私たちの上に「南無阿弥陀仏」となって届いています。念仏とは、この南無阿弥陀仏を私が口に称えることであるとともに、耳に聞くことでもあります。耳に聞くとは、単に音声を聞くだけでなく、南無阿弥陀仏となって私を救おうとはたらいておられる阿弥陀如来の本願を知ることです。

 

このように念仏の本当の意味が分かると、如来の本願という真理の働きに包まれている安らぎと温かさを感じることができます。また同時に、自分がその願いに背を向けて自分中心に生きて罪ばかり作ってきたことが自覚され、懺悔の念仏がこぼれます。

 

親鸞さまは、この本願と念仏こそがすべての人々が救われる唯一の仏道であると教えてくださり、浄土真宗と名づけられました。

 

私は念仏を喜ぶ身にならせていただきましたが、柳澤桂子さんが苦しみの果てに出会われた精神世界をとても身近に感じているのです。

 

合 掌