浄土真宗本願寺 福岡教区

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みんなの法話

福山 昭思  本願寺派布教使 下川東組 明行寺

自分のいのちだから、生きようと死のうとどのようにしようと勝手じゃないかと思っている人もいるかもしれませんが、いのちの誕生をしみじみ思うとき私には父がいて母がいて祖父母がいます。私の誕生には遠い昔から思いも及ばぬ程の多くのいのちがつながり、その中に自分のいのちをいただいているのです。私が生きているという現実の姿の中には多くの縁をいただき繋がりがあります。

 

私が生きているのは野菜、魚、お米そのほかの食物にしても実に多くのいのちが私にかかわって育てられています。衣食住をはじめとする生活全般にわたって思いも及ばぬほどの多くの人々のいのちや、物が網の目のようにかかわりあい、生かされているのです。

 

いのち恵まれて、いまここに生かされて生きている私、大切に生きて行こう。みんなのいのちを大切に、アカの他人は一人もいないんだ。

(波北 彰真 著『人生のほほえみ』本願寺出版社)

 

親鸞さまが仰がれた天親菩薩の『浄土論』に「世尊我一心に、尽十方無碍光如来に帰命し」といわれ、救いの仏の本質を尽十方無碍光如来と仰せられ、今日生まれて今日死んで行く小さな微生物に至るまで、如来さまの光の当たらぬところはないという「尽ハツクストイフ、十方世界ヲツクシテコトゴトクミチタルナリ」とあり、仏はいつでもどこでもわたしたちが何をしていても分け隔てなくゆきわたってましますと解釈されたのです。

 

十方とは東西南北四推上下、如来さまの光の当たらぬところはないのです。仏さまと聞くと背を向け疑ったり、逃げて、逃げ回り知らんぷりの私でも、いつでも、どこでも仏さまに照らされている私がおります。

 

仏さまといっても多くの仏さまがおられます。それぞれにお名前があります。浄土真宗のご本尊は「阿弥陀如来」です。この仏さまのお名前「阿弥陀」というのはもともとインドの言葉「アミダ」を中国で音訳して「阿弥陀」と表しました。お名前・言葉の意味を通して仏さまのお心「ミダ」は量るということで、「ア」は打ち消しの接頭語で次に出てくる言葉の意味を打ち消し「阿弥陀」は量ることができない、量りしれないというので無量と訳しました。

 

無量の内容は何かというと、一つには「寿命無量」いのちに限りがない。二つには「光明無量」ひかりに限りがないことです。いのちに限りがないということは、どんな時でも休みなくすべてのいのちの上にはたらいてくださる仏さま、たとえば雨が降れば、高い木も低い木も薬の木も毒の木も、分け隔てなく濡らすように無碍光の働きは善人も悪人も、悩みの多い人も少ない人もお慈悲のうるおいに浴(よく)せしめてくださるのです。雨の方から浸みこんでくださる大悲、無碍光なのです。この無碍光の心を聞かせていただきましょう。

 

合 掌