浄土真宗本願寺 福岡教区

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みんなの法話

榊 了慈  本願寺派布教使  早良組明法寺

2月になりました。14日のバレンタインデーには親しい人に、あるいは思いを寄せる人にスイーツの贈り物をするという人がたくさんいらっしゃいます。バレンタインデーの起源を訪ねてみると、ローマ時代の司祭ウァレンティヌスの殉教を由来とするキリスト教徒の祝日とされていますが、諸説あるようです。

伝説によると当時のローマでは兵士の婚姻が認められていませんでした。その理由について、「ふるさとのパートナーが気掛かりで兵士の士気が下がるから。」だと伝えられています。ウァレンティヌス司祭はこのような兵士のために禁を破り、婚姻の祝福を与え続け、ついには処刑されてしまったのでした。確かに愛しい人をふるさとに置いて独り戦場に向かうことは大変な苦痛でしょう。また、愛する人の帰還を信じ待つ身もつらいことは言うまでもありません。婚姻したカップルの中には、再会を果たすことが叶わなかった人々もいたのだろうと想像します。

お釈迦様は愛しい人との別れを「愛別離苦」と言って、人間が背負っている苦しみの一つであることをあきらかにされました。「会うは別れの始め。」とも言います。私たちの出会いは、たとえどんなに親しい相手であってもいつか必ず別れていかなければなりません。またある日突然、突発的な事故により言葉も交わすこともなく別れていかなければならないこともあります。その苦しみは耐え難いものでしょう。その深い苦しみの根底にあるものは何か、それは愛です。私たちは、愛が大きければ大きいほど死別の苦しみは大きく、深く、重くなります。そしてその苦しみは継続します。失った大切な人への大好きな気持ちが変わらないように、悲しみもまた変わらないのです。

また、愛は人を育てます。これを読んでくださっている方も、きっと誰かの愛を受けていることでしょう。もちろん、愛をそそぎ育んだこともあるはずです。家族、恋人、友人、恩師、推しメン・・・。人は愛によって育み/育まれています。だからこそ私たちは愛を求めて止まず、手放すことができません。つまり私たちの存在は悲しさや苦しさを決して避けることができない、苦悩する存在であるということです。このような存在のことを親鸞聖人は『正像末和讃』の中で「苦悩の有情」とお詠みになられています。

如来の作願をたづぬれば

   苦悩の有情を捨てずして

   回向を首としたまひて

   大悲心をば成就せり

私たちはどうしようもないものを背負ってうまれてきました。思い通りにならないこと苦しみます。悲しさや怒り、恨みに燃え上がり右往左往します。理想の自分や他人と比べて嫉妬し、自分も人も許すことができません。どれほど大切な存在であっても、その大切な存在で苦悩することをやめることができない悲しい存在です。そのどうしようもない悲しさをひき受け、苦悩にあえぐものこそを必ず救うと私にはたらいてくださるのが阿弥陀様です。

苦悩にある時、ひとりぼっちだと思い込んでしまいますが、それは大きな誤りです。自分一人の苦悩ではありません。そこは阿弥陀様の手の中です。一人ではありません。大きな慈悲の願いの中にこそ、この生き難い苦悩のいのちをいきることができるのです。