浄土真宗本願寺 福岡教区

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みんなの法話

川﨑 文丸 本願寺派布教使 怡土組長楽寺

噫、弘誓の強縁 多生にも値ひがたく、真実の浄信 億劫にも獲がたし。たまたま行信を獲ば遠く宿縁をよろこべ。もしまたこのたび疑網に覆蔽せられば かえってまた曠劫を経歴せん。誠なるかな摂取不捨の真言 超世希有の正法 聞思して遅慮することなかれ(『教行信証』総序)

 

御讃題は親鸞聖人が著された『教行信証』の「総序」のご文です。ああ(噫)の一言に親鸞聖人の思いのすべてが嘆ぜられています。

 

まちがいのない阿弥陀さまのたしかな、そして力強いすくいのお手立てはわたしどもがどんなに多くの生をくりかえしても値遇(出会う)することは難しい。阿弥陀さまの真実のおこころはどれほど長い長い時間をかけても獲ることは難しい。たまたま予期もせず、おもいかけずも、南無阿弥陀仏をいただく身、お念仏申す身になったならば、はるか遠い宿世のご因縁をよろこびなさい。もしまた再び疑いの網に覆われたなら、反対にまたもとのように、果てしなく長い長い間、迷いの流転を繰り返すことになる。阿弥陀さまのご本願の なんとまことであることか。摂めとってお捨てにならないという真実の仰せ、世に超え類い希なる正しいおみのり、しっかりと阿弥陀さまのおこころを受けとめ、聞きひらいて、疑いためらってはならない。いただきなさい。

 

と、親鸞聖人が自らの求道の体験を通して、わたしどもに呼びかけてくださっています。

 

1181年、ものごころつくわずか9歳の少年が、慈鎮和尚のもと 青蓮院で得度・出家して天台大師最澄を開基とする天台宗の総本山 比叡山延暦寺の修行僧としての生活に入り、厳しい修行と難解な仏教の教理を学んで20年間、一途に煩悩を断ち切って悟りをひらこうと懸命に努力されました。しかし堂僧としての不断念仏の修行も、実践すればするほどそこに現れるのは底知れぬ我が身の煩悩の深さと、我執我欲のかたまり、それこそが自身の本性であることを知らされたことでした。迷いの境界を出る道、それは仏道を実践して行くことではありますが、そのためには煩悩を断ち切る、それがさとりへの道です。そこには厳しい修行を実践し、学問を習得してゆかねばなりません。そのために堅固な意志と恵まれた体力と不撓不屈の精神というようなさまざまな条件が整ってはじめてそれはなし得ることでしょう。また最後までその道を歩み続けることははなはだ困難なことです。聖人は29歳のとき、煩悩を断ち切ることができない苦悶と焦燥のなかでついに和国の教主と仰がれた聖徳太子の建立とされる六角堂への百日の参籠(通いの参籠)を決意されました。

いったい、『仏教とは何?』『仏道とは何?』と仏道の振り出し(原点)に戻って、問いなおすような事態になっておられたとうかがうことができるようです。

20年におよぶ厳しい修行と学問は、自身の期待に添うことはありませんでした。

結果的には、自身への絶望と、苦悶のなかで、聖徳太子の示現を感得して、まだ夜が明けぬうちに比叡山を出て、吉水の草庵で、すでにお念仏の教えを説いておられる法然さまを尋ねられることとなったのです。そして再び百日間のお聴聞がはじまりました。法然さまの説かれるお念仏の話し、聞けば聞くほど仏法の有り難さが知らされ、お念仏を修行の手段・道具にしてきた自己の過ちに気づかれ、ここまで押し出し、導いてくださる大きな不思議なはたらきをお念仏に見いだされました。

親鸞聖人は『正信偈』には 本師源空明仏教 と記述され、法然さまが「仏教が何たるかを明らかにしてくださった」と宣言され、さらに『ご和讃』には

 

曠劫多生のあひだにも

出離の強縁しらざりき

本師源空いまさずは

このたびむなしくすぎなまし

 

知らなかった、知らなかった。迷いの境界を出る確かなはたらきが、すでに遠い遠い昔からあったことを。法然さまを「本師源空」と仰がれ、法然さまのおかげで迷いを出る道に立たせていただいたと鑚仰されています。