浄土真宗本願寺 福岡教区

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みんなの法話

本願寺派布教使 東筑組 西徳寺  篠田准照

日々の日課になっているランニングのコースにツバメの巣を見つけて、はや2ヶ月が過ぎました。巣を見つけた当初は、蚊の羽音のような雛の声がかすかに聞こえるほどでしたが、今ではけたたましい声で雛たちが親鳥に餌をねだっています。どうやら子育ては順調のようです。

 

そんな大きくなった我が子たちを見て、親鳥もすこしホッとしているのかというと、そんなことはありません。雛が大きくなったということは餌もたくさん必要ということですから、親鳥たちはこれまで以上に巣の周りをビュンビュンと餌を咥えて飛び回っていました。その懸命さたるや、見ているこちらが「そんな小さな体なのに大丈夫か?」と心配になるほどです。しかも、親鳥の役目は餌を与えるだけではありません。卵を産む前、「巣」という雛が安心できる場所を作ったのも親鳥です。また、カラスや猫などの外敵が襲ってきたとき、親鳥は命懸けで雛を守るでしょう。親鳥は自分の身をすべて雛のために捧げていきます。

 

そんな親鳥の姿を見て、かつてお聴聞したご法話での節談説教のフレーズが思い出されました。

 

一願積んでは衆生のため、一行励んでは衆生のため、衆生のためなら、この弥陀は、凍る氷も凍らばば凍れ、逆巻く波も立てば立て。八寒紅蓮の氷の中も、焦熱無間の炎の中も、衆生一人弥陀一仏。実の子じゃもの親じゃもの、八万由旬燃えさかる、炎の中に飛び込んで、血煙あげて泣くやつを、抱いて抱えて摂取して、蓮華の台(うてな)に乗せあげて、にっこり笑う顔見るまでは、引くに引かれぬ親じゃぞよ。

 

阿弥陀様の願いは、この親鳥のように、私たちを自身と同じ「仏」という存在に仕上げることです。その願いを成就するためならば、どのような苦しみを味わおうとも決して悔いはないと高らかに宣言され、そして命懸けでご苦労をくださいました。その願いとご苦労が今私たちのもとで「南無阿弥陀仏」と完成されたのです。ですから、今私たちの口から出る「南無阿弥陀仏」には、この私を仏とするために積んでくださった、阿弥陀様の功徳が欠目なく込められています。その「南無阿弥陀仏」を私たちはただただ頂いてゆくばかり。阿弥陀様の命を懸けたお育てはこれからもなお、私たちのこの身を舞台として続いてゆきます。雛は雛である限り、親鳥は懸命にはたらきつづける。ツバメの親子から阿弥陀様のみ心を垣間見たことでした。