浄土真宗本願寺 福岡教区

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みんなの法話

清水朋行 本願寺派布教使 志摩組 安養寺

世界中がコロナ禍にみまわれて2年半、3度目の夏を迎えました。徐々に世の中の動きも元に戻り始めた矢先、第7波の報道が繰り返されると、今年のお盆はどうなるのだろうとまた不安がよぎります。2月に始まったロシアによるウクライナへの非道な軍事侵攻は終わりが見えず、犠牲者は日々増え続けています。お釈迦様が「五濁悪世」と言いあてられた「末法」のすがたが、様々なかたちであらわれ、世の中の混迷と不安は深まるばかりです。

さて、浄土真宗にご縁を頂いている私たちは、日々ご本尊である阿弥陀様に礼拝しお念仏を申す生活を送っていますが、その阿弥陀様とはどんな仏様なのか、どういうわけで仏となられたのか、なぜ浄土という仏の国を建立されたのか。そんな事を考えてみることも実はとても大切なことです。親鸞聖人が真実教と決定された『大無量寿経』には、阿弥陀様が本願を発し、仏となられたいきさつが説かれています。経には、まだ修行者であられた時(因位時)の阿弥陀様が法蔵菩薩として登場しますが、この法蔵菩薩にはもう一つのお名前があることが知られています。

高田派の専修寺(三重県)に現蔵する「曇摩伽(ドンマカーラ)菩薩文」という宝物があります。これは親鸞聖人の真筆と考えられていますが、その数十字の文の前半に「曇摩伽菩薩(どんまかぼさつ)と申す也 娑婆世界の王也無諍念王(むじょうねんおう)出家の後法蔵比丘(ほうぞうびく)と名づく」と記されています。お釈迦様もそうであったように法蔵菩薩は娑婆世界では国王の立場にありました。その名前が「無諍念王(むじょうねんおう)」というのです。「諍い(あらそい)の無きことを念じてやまない王」という意味でしょう。実は阿弥陀様がなぜ仏になられたのか、その願いの出発点といえる精神がこの名前に端的に表現されていると言ってもよいでしょう。

ある時、国王は世自在王仏の説法を聞き、心に菩提心を発し、国を棄て、王を捐て、出家して法蔵菩薩と名のられます。あらゆる衆生を救うために浄土の建立を誓われ、永劫の修行の末に南無阿弥陀仏に成られたのです。争いなきことを念じながら生きた王が、現実には人の世から争いが絶えることがない。その苦悩と葛藤の現実の中、師仏との出遇いによって仏法に帰依しその願いを成就していく法の世界があることに目覚めていかれます。

王が国や位を棄てられたことの意味、そして法蔵菩薩となってどのような国の建立を願われたのか。その願いに立ちかえりながら、今年もお盆(終戦の日)をむかえます。

 

称 名