「願われて生きる」(2022年11月)
清永 智教 本願寺派布教使 鞍手組 清光寺
私が小学生だったころ、学校の運動会前の時季の事です。朝、学校に行こうとすると、父に呼び止められました。
私「行ってきまーす」
父「ちょっとこっちにおいで」
私「なに?」
父「いいからちょっとおいで」
私「なに?」
父「おまえ普段は行くときに、お仏壇におまいりせんのに今日はおまいりしよるけど」
私「しよったけど」
父「なんかお願いしてたんか?」
私「実は今日紅白リレーの選手決めがあるから、『どうかならせてください』ってお願いしてた」
父「そうか、今日選手に決まったら、帰ってなんて阿弥陀様に言うん?」
私「さすが阿弥陀様ありがとうございます。おかげで選手になれました」
父「選手になれなかったら?」
私「阿弥陀様あんなにお願いしたのに、役に立たんねー」
すると私はこのように父に叱られました。
父「あのね、お仏壇にお願い事したら駄目よ。お仏壇はお礼を言うところよ。お前の気持ちで、阿弥陀様が良いものにも、悪いものにもなりようやろ。それは煩悩よ、欲よ」
それから数日間、私は父になにか言い返したいと思っていました。
私「お父さんは、お願いしたらだめだって言うけれど、たとえば、遠く離れた子どもさんにお母さんが、お仏壇の前で『今日も元気でいてほしいな』、『怪我とかもせんでほしいな』と、お願いしても駄目なん?」
父「それは親の願いやろ。お前の願いは勝ちたいって欲望やろ。願いが違う」
またしても𠮟られました。
この春から子どもが大学で家から離れました。親の願いを実感しています。
金子みすゞさんの詩「さびしいとき」の一節に「私がさびしいときに、よその人は知らないの、お友だちは笑うの、お母さんはやさしいの、仏さまはさびしいの」(抄出)とあります。阿弥陀様は私に寄り添い、一人じゃないよ共にいるよ、そのままで良いよと私の気持ちに、ご一緒してくださいます。願われて生きるって仕合わせだな、有難いなと感じます。どんな時でも私を願い続けてくださる阿弥陀様のお慈悲に南無阿弥陀仏とお礼申しあげます。