浄土真宗本願寺 福岡教区

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みんなの法話

宗 秀融 本願寺派布教使 早良組 真正寺

 

呑気と見える人々も、心の底を叩いてみると、どこか悲しい音がする

 

夏目漱石の『吾輩は猫である』に登場する言葉です。

世間体をどれだけ繕って生きても、心の底に抱えているものは愉快なものばかりではありません。我々は心の一番奥の部屋に鍵をかけて、その外はいつ見られてもいいように飾って暮らしています。

 

学生時代、仲の良い友人が親子喧嘩している所に遭遇しました。普段温厚で人当たりの良い友人のその姿にとても驚いた記憶があります。

今思えば思春期とはそんなものだと理解できますが、その時は「見てはいけないものを見てしまった」と、どこか申し訳なく思ったものでした。私にも世間で見せる顔ばかりではなく、決して人には見せられない鍵をかけた心の部屋をもって生きています。誰に見せることのない、いや私自身も目を背けている部屋を持っているのです。

 

仏様のお話は世間をいかに渡っていくかという処世術ではなく、この私の内なる問題なのです。

3ヶ月近く、病床に伏しておられたご門徒がおられました。そのご門徒はこのように仰っておられました。

 

「この辛さを誰かに分かって欲しいと何度も思ったけど、よくよく考えてみれば私も誰かのことを心底理解できてる訳ではなかった」と、その時教えてもらいました

 

そうなんです。誰も人の心の奥底を知ったと思ってはならないし、また知ろうとしてはならないのです。私は鍵をかけた部屋を持ち、苦悩を抱えて一人とぼとぼ生きているのです。ここが、こここそが仏様の仕事場なのです。

 

どれだけ科学が発達しようとも、鍵をかけた私の部屋に届くものはありません。一人じゃない。一人じゃないぞ、と鍵をかけた私の部屋に仏様の功徳が宿りこんでくださいました。罪と功徳が入り満ちて生きていくのだと教えてくださったのが仏様のお話であります。その功徳がどんな姿で来てくださったかというと、称えれば声に響く「南無阿弥陀仏」と届いてくださったのでありました。