浄土真宗本願寺 福岡教区

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みんなの法話

原遵由 本願寺派布教使 嘉麻組 光隆寺

「仏教のどこが好き?」

「魅力はなに?」

「どこに救われる?」

 

最近、私の理学部時代の同級生に会うと、宗教や仏教についての質問・疑問をぶつけてくれる友人が増えました。今年で31歳になりますが、「皆それぞれのステージで苦労してるんだなぁ」と思ったり・・・私一個人としては、非常に嬉しい質問です。

数学教員から仏門に入り、今では仏教の価値観を中心に生活している気がします。

最近は仏教が“私をわかってくれる教え”なんだな、と改めて感じます。今日はその部分をお伝えさせていただきます。

 

二つの側面から考えてみます。

 

一つには、仏教は“論理的に”私をわかってくれるということ。

お経を勉強していくと、その中に人間の特徴・クセ・あり方などが説かれており、自分自身のことを知らされていきます。人生で悩んだ時、立ち行かなくなった時、色んな場面で仏さまの教えに立ち返ることができます。

 

二つ目には、仏教はわかってくれる“存在がそこにある”ということ。

一つ目は頭で理解していくのに対して、こちらは感覚的なものといえるでしょう。離れていても、言葉を交わさなくても、会えなくても、「私を理解してくれる人がいる」と思えるだけで、ふと心が軽くなる瞬間があると思います。思い通りにならない現実は変わらなくとも、誰かに理解してもらうことで、その現実と折り合いをつけることができた、という経験はそれぞれにあると思います。姿形は見えなくても、そこに心を寄せていけるというのは人間の美しさです。仏さまは私にとっての良き理解者のお一方です。

 

私が理解者に救いを感じる、といった背景には私の歩みが強く関係していると思います。

私は中学校の頃にいじめに遭い不登校になる時期があり、その頃から人間関係には敏感になった気がします。そんな私にとって、25歳で出遇った仏教は目から鱗の学問でした。今まで思い通りにするためにはどうしたらいいか、をずっと学んできましたが、仏教ではその逆。人生とはそもそも思い通りにならないもの、その立場に如何に立つことができるかが大切だ、と。

でもね、思い通りにならなくても、大丈夫。生きてたら人間みんなそんなもん。そんなことは仏教が開かれた2500年前から明らかになってることだから、とも。すっと肩の荷が降りたのを覚えています。今でも自分を変えようと一生懸命になるけども、時にはありのままでもいいんじゃない?という声には救われます。

 

理解者が居ないと、それはまさに孤独。孤独は本当に辛いものです。孤独が怖くて理解者を求めてきた私にとって、仏教は大切な教えであります。

 

合 掌