浄土真宗本願寺 福岡教区

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みんなの法話

郡島朋昭 本願寺派布教使 那珂組 光照寺

私の所属する光照寺では、大人も子どももどなたでも気軽にお参りいただければと思い、毎週日曜日の朝八時から「日曜礼拝」を行っています。前身の行事であった子どもだけを対象にした「日曜学校」から言えば四十年以上続く行事です。

しばらく前のことになりますが、お寺にお電話をいただいたことを思い出します。そのお電話をくださった方は、日曜礼拝の開始前にならす鐘、行事鐘(ぎょうじしょう)がうるさいと怒っておられました。

二十分ほどお話ししたところ、何とか互いに落としどころを見つけて円満にお電話を終えることができました。さらには、そのうちお参りに行ってみようかなとまで言っていただきました。

 

それ自体は問題なく終えた話なのですが、やり取りの中で一つ考えさせられることがありました。お話を伺う中で「(鐘をならさないのは)普通はあたりまえ」という言葉が何度も出てきたのです。

改めて調べてみると、普通とは『他の同種のものとくらべて特に変わった点がないこと』だそうです。つまり、このお電話の話で言えば「変なことはやめて大多数の想いを汲んではどうか」という意図であったかと思います。

対して、私も「あなたの仰るようなご相談は今までありませんでしたよ」と私の中の普通を振りかざしてお返事をしてしまいました。

私の考える普通は、普通でないものを切り捨てることで成立します。恥ずかしげもなく【大人も子どももどなたでも気軽に】などと吹聴していたことを情けなく思います。

 

いつも日曜礼拝では正信偈をお勤めしています。阿弥陀仏の願いの光はあらゆるいのちを等しく包むという『一切群生蒙光照(いっさいぐんじょうむこうしょう)』の一節に差し掛かるたびにこのことを思い出します。私を包んでくださる大きなはたらきに手を合わせ、このままでは居れないなとこれからの生き方を考えるのです。