浄土真宗本願寺 福岡教区

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みんなの法話

山﨑 恵照 本願寺派布教使 怡土組 真教寺

私はお寺の他に保育園をさせていただいております。その保育園で以前ある子どもが「ゴミ、ゴミ!」と空中に向かって指さしておりました。ふと見ますと、日差しが部屋の中に差し込んでいたのですね。その光に照らされて空中に浮遊している塵がキラキラと見えておりました。ふだんは見えないのに太陽の光に照らされたところのみ、沢山の塵が見えてくる。普段見えないので全く気にならないのですが、人間というのは不思議ですね。一旦見えて確認してしまうと、なんだか今吸っている空気も汚れている気がして、呼吸しづらくなるものです。ただ見えてないだけでどこにでも浮かんでいるし、吸って体に影響があるわけじゃないのですけどね。

 

この空中に浮かぶ塵のように私たちの心の中には腹を立てたり、愚痴を言ったり、あれも欲しいこれも欲しいと言ったりする汚い心が次から次へと際限なく出て参ります。それどころかそういう私であるという事実でさえ忘れがちになってしまいます。

『浄土和讃』の中に

 

智慧の光明はかりなし

有量の諸相ことごとく

光暁かぶらぬものはなし

真実明に帰命せよ

(註釈版五五七頁)

 

とありますように阿弥陀さまの限りない智慧の光明は、分けへだてなくすべてのものを照らしてくださいます。光に遇って今まで見えなかった塵が見えたように、阿弥陀さまの智慧の光明に照らされて私の無明の煩悩の塵があぶり出され、無数の煩悩の塵を断ち切ることはできない「私」を阿弥陀さまは最初から見抜いてくださり、慈悲のお心で救わずにおれないと今ここで私一人がために働き詰めにはたらいてくださっているのです。そのご恩にただただお陰さまでありましたと、ご恩報謝のお念仏申させていただく生き方こそ真宗門徒の生き方ではないでしょうか。