浄土真宗本願寺 福岡教区

MENU

みんなの法話

和田新吾 本願寺派布教使 大分教区 岡組 蓮光寺

母方の祖父が亡くなってから、あれほどしっかりしていた祖母(当時八十八歳)の物忘れが進行していきました。鍋を焦がしたり、水道を出しっぱなしになったりの繰り返しで、一人での生活が難しくなりました。

 

娘である私の母が毎日のように片道四十分かけて通い、介護の生活が始まりました。しかし、その介護の生活も長く続けられず母は体調を崩してしまいました。

 

そして、家族で何度も話し合い、ケアマネジャーさんとの相談の結果、祖母は近くの老人施設に入所することとなりました。

 

医師の診断の結果、認知症がかなり進行していると診断を受けました。度々、施設を訪問し祖母の見舞いに行きましたが、次第に会話も三分前の会話を繰り返すばかりで孫である私の名前も出てこなくなり寂しい思いをしましたが、娘である母のことは理解ができましたので少し安心しました。

 

しかし、そのような老い・病いの生活は長く続かず祖母は九十三歳をもって今生の命を静かに終えていきました。

 

そして、通夜・葬儀と時間は流れていく中、お通夜の夜、亡くなった祖母と母と三人になった本堂で母が涙ながらに話してくれました。

 

「お参りの人たちが、最後までよく献身的に看病していたね、自らの親であってもなかなか出来ないことよ、最後までよく看病していたねと声をかけてくれたけど、長く看病していく中で本心は九十歳を過ぎて何もかも忘れてゆく母の姿を目の当たりにして、もう楽になってくれないかと何度も思っては謝り、思っては謝りの繰り返しだった。」と、介護する中での心の葛藤を吐露してくれました。

 

親鸞聖人は御和讃に、

 

          如来の作願をたづぬれば

          苦悩の有情をすてずして

          回向を首としたまひて

          大悲心をば成就せり

 

                正像未和讃

 

仏さまの眼にうつる私の姿を「苦悩の有情」といい、有情とは「情ある者」。感情を持ち、誰にも言う事のできない様々な事情を抱えて分かってもらうことのできない苦悩する姿がありました。認知症の母を看取っていくその中にどれ程の時間が過ぎても、愚痴や後悔、寂しさは消えていきません。まさに、介護する側、される側、苦悩の有情の真っ只中であり、阿弥陀さまのお慈悲の現場でありました。

 

阿弥陀如来は、私どもの生き方や死に方は示しておられません。ただ、「必ず救うまかせよと」、ひたすらに救いの法を成就して、いつでもどこでもこの私の胸に入り満ちて、「南無阿弥陀仏~安心しなさい、私がここにいるよ」と私の孤独の人生にご一緒くださるお慈悲の仏さまでありました。

 

お慈悲のはたらく現場はまさに、苦悩の有情の真っただ中の私一人のためであったと、認知症の祖母の死を通してあらためてご法縁に遇わさせていただきました。

 

南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏……合掌