得者を信ず(2024年9月)
轟 慈照 本願寺派布教使 福岡教区 福岡組 傳照寺
私の祖母は、住職をしていた祖父が早く亡くなったため、高校の教員をしながら僧侶となり、お寺を長きに渡って支えてくれた人です。
昨年末、祖母の葬儀の時のビデオが発見されました。私も家族もはじめて見た、今から二十年以上前の映像です。近隣のご住職やご門徒の方々の若かりし時のお姿が映っており、感慨深く拝見しました。生前の父親が葬儀の最後の御礼の挨拶で、自分の母に対する思いを述べました。祖母が定年退職前から改めて仏教を学びはじめ、そこからの二十年間が母親にとって一番生きている実感があったのではないか。恩師に出遇い、親鸞聖人に出遇い、おみのりを聞いていく母親の生き生きとした姿を振り返り、また、晩年は長い間認知症だったことも回顧していました。挨拶の最後は、「母親ながら有り難い人でした。」という言葉でした。そのビデオを見ながら、隣で母親がお念仏を申し涙していました。
あるご法座の時のこと、祖母は本堂に参らず、納骨堂にだけお参りに行かれるご門徒に、「あなた!納骨堂にだけお参りしても、あなたの親しい方がどこにいったか、あなたがどうなるか、分かりませんよ。仏法を聞いて、いのちのよりどころを確かめなさい!」と言ってご門徒を本堂に座らせていたそうです。
また、祖母が手書きで書いた昭和五十七年の年賀ハガキには、「人生苦をどうして越えることが出来るか。心のもちようと云いますが、わが心だけでは出来ないんです。阿弥陀如来という佛を心にもつことではないでしょうか」と書かれてありました。
葬儀のビデオのおかげで、改めて祖母と父親を偲ぶご縁をいただきました。親鸞聖人の主著の中に、「得者を信ず」という言葉があります。これはさとりへの道があると信じるだけではなく、その道を歩みさとりを得たお方がおられたことを、信じることの重要性を述べられたお言葉です。
私に先んじて、お念仏をよりどころに、この娑婆をさとりへの道として、確かに歩んでくださった方々がおられます。その「得者」との出遇いを慶び、その呼びかけに耳を傾け、この娑婆を歩んでいきたいと思います。
南無阿弥陀仏