浄土真宗本願寺 福岡教区

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みんなの法話

蓮谷 啓介 本願寺派布教使 大分教区 大海組 妙蓮寺

先日のこと。仏華に不格好と切り捨てた蝋梅の枝に、黄色い小さな花が咲いていました。 ふと、阿弥陀様はどうご覧になるだろうかと思った時、九条武子様の歌を思い出しました。

 

すてられて なお咲く花の あわれさに またとりあげて 水あたえけり

 

捨てられるのは花だけではありません。人間も無常の世にあって、老・病・死と衰え、力をなくしていかねばなりません。その時、社会や家族からも疎まれてゆくこともあるでしょう。 また、若くとも勉強や運動の得手不得手によって、受験や就職などでも、力無き者、弱き者として切り捨てられていくこともあります。

 

宗教の世界でも、神や仏に背く者は見捨てられていくのかもしれません。捨てられるどころか、罰を与え、地獄に落とすという宗教もあると聞きます。 また、試験のように、難しい修行や学問の出来によって救いに線引きがなされ、犯した罪を責めて裁くといった宗教もあるでしょう。

 

今、私ももっともらしい理由をつけて花を捨てます。 しかし、それを拾い上げ、水を与える方がありました。それが阿弥陀様です。

 

親鸞聖人は「十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなはし 摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる」と示されます。そして「摂取してすてざれば」の左側に「ひとたび取りて永く捨てぬなり」また「ものの逃ぐるを追はへ取るなり」と書き添えられました。

 

阿弥陀様とは、救いから逃げ、背き続ける命こそ思いやり、絶対に見捨てはしないと立ち上がって、どこまでも追いかけ、待ち続け、抱き取ってくださる仏様であったかと涙されたのです。四方八方、そして上下のあらゆる世界。たとえどんなに小さな世界の片隅であっても、衆生に称えられる念仏となって「独りじゃないぞ」と告げてくださいます。  ここに、全てのものから見捨てられそうな一輪の花の、私一人の命の所在がありました。

 

2月は如月忌。九条武子様の祥月です。