浄土真宗本願寺 福岡教区

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みんなの法話

川﨑 潔 本願寺派布教使 福岡教区 怡土組 長楽寺

童謡詩人・金子みすゞさんの「星とたんぽぽ」といううたをご紹介します。

 

星とたんぽぽ

 

青いお空の底ふかく、

海の小石のそのように、

夜がくるまで沈んでる、

昼のお星は眼にみえぬ。

見えぬけれどもあるんだよ、

見えぬものでもあるんだよ。

 

散ってすがれたたんぽぽの、

瓦のすきに、だァまって、

春のくるまでかくれてる、

つよいその根は眼にみえぬ。

見えぬけれどもあるんだよ、

見えぬものでもあるんだよ。

 

 

金子みすゞさんは昭和初期に活躍した童謡詩人です。生家が浄土真宗のご門徒であり、詩集を読んでみると「お仏壇」「報恩講」という題のうたもあって、幼いときから仏さまの話をよく聞いていたことがわかります。そんなみすゞさんの作った「星とたんぽぽ」のうたにも、私は阿弥陀さまの眼差しを感じます。私達の眼ではすべてのものを見ることはできません。親の愛情や周りの方の親切な心も眼には見えません。しかし、それは確実に私たちにはたらいているのです。

同じように阿弥陀さまも、お浄土(仏さまの世界)も、私達の眼には見えません。しかし阿弥陀さまのお心はいつも私達のうえに注がれているのです。浄土真宗の宗祖・親鸞聖人のうたにこうあります。

 

煩悩にまなこさへられて

摂取の光明みざれども

大悲ものうきことなくて

つねにわが身をてらすなり

 

このうたで親鸞聖人は、自らの煩悩に眼を遮られている私たちに、はたらき続ける阿弥陀さまのことをうたわれています。浄土真宗ではいつも「南無阿弥陀仏」とお念仏を称えますが、親鸞聖人は、この一人一人が称える「南無阿弥陀仏」のお念仏は、「必ず救う、われにまかせよ」という阿弥陀さまからの喚び声であると教えてくださいました。阿弥陀さまのおすがたは見ることはできません。しかしその救いのすがたを、自分の称えるお念仏の声に知らされ、気づかされるのです。出るはずもないお念仏が、今、自分の口からこぼれ出る不思議さ。それは阿弥陀さまの大慈悲のはたらきがいまここに届いてくださっているすがたなのです。