浄土真宗本願寺 福岡教区

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みんなの法話

七里誓路 本願寺派布教使 福岡教区 福岡組 善照寺

数ヶ月前、北海道のとあるお寺に出講させていただいたときのことです。夕飯の接待の最中、ご住職がトシコさん(仮名)という御門徒さんのお話をしてくださいました。よく御聴聞をされ、大変お念仏を喜ばれた方だったそうです。ある日、ご住職が娘さんから「住職さん、うちのおばあちゃんに注意して下さいませんか。最近、お念仏をするときの声がやたらと大きくて。お念仏ってのは静かに称えるものでしょう。」と言われました。

 

トシコさんのお宅はお寺のすぐそばです。後日、庭で草むしりをしながらお念仏をするトシコさんの声が聞こえてきたといいます。確かに娘さんが言われたように、以前よりその声が大きくなっていたことに、ご住職も気づかれました。そこでご住職が「トシコさん。あなた最近お念仏の声が以前より大きくなっているけど、どうしたんだい?」と尋ねられました。それに対するトシコさんの答えは、

 

「それはね、阿弥陀さまがね、このトシコの耳が遠くなっているのをご存じだから、トシコの耳によく聞こえるように、おっきな声で喚んでおられるんだろうね。」

 

というものでした。「喚んでおられるんだろうね」と、自分のことを尋ねられているのに、ぶっきらぼうな他人事のような答えだと思いませんか。しかしこれでいいのです。

 

親鸞聖人は私たちが口に称え耳に聞こえてくる「南無阿弥陀仏」を、阿弥陀さまの喚び声であると仰いました。阿弥陀さまが「あなたのいのちは私が引き受けた。どのような最期であろうとも、必ず我が国浄土へ連れて行き、仏にするからね。安心しておくれ。まかせておくれ。」と、私の口を使って喚んでおられる。その喚び声を称えながらに聞き、安心をいただくのです。

 

トシコさんの答えがそれです。トシコさんのお念仏の主語は自分ではありませんでした。舌を動かし、声を発するのは確かに自分です。しかし、称えている自分には用事がありません。自分を主語にするのではなく、「南無阿弥陀仏」と自分を喚んでくださる、阿弥陀さまを主語にされて味わっておられたのです。何度も聞いたはずの原口針水和上のお歌が、今までになく響いた晩でありました。

 

われ称え われ聞くなれど 南無阿弥陀 つれてゆくぞの 弥陀のよび声