浄土真宗本願寺 福岡教区

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みんなの法話

松月博宣 本願寺派布教使 福岡教区 志摩組 海徳寺

「亡くなった方は仏さまになられた」と聞かされても、「でも、帰ってきた人なんて一人もいないじゃないか」と疑問を口にされる方があります。たしかに、私たちの目に見えるかたちで仏となって戻ってきた、と思える経験は少ないかもしれません。けれども、それは本当に「帰ってきていない」と言えるのでしょうか?

 

 

『歎異抄』第5条に、

「いそぎ浄土のさとりをひらきなば、六道四生のあいた、いづれの業苦にしづめりとも、神通方便をもって先ず有縁を度すべきなり」(註釈版聖典835頁)

と親鸞聖人が語られたと記されています。これは、亡き父や母のことを本当に思うなら、後に残っている私が、阿弥陀さまの救いを喜ぶ身となり、お浄土に往生しさとりを開かしてもらい、仏の徳である神通(ふしぎな力)や方便(さまざまな手立て)を用いながら、まずご縁ある人々から救っていこうじゃないか、という意味です。

これを先立たれた方から言うと、仏となられた方々は、目には見えないけれども、私たちのもとにすでに還ってきてくださっているということです。

 

 

そのはたらきの相(すがた)は、お寺にお参りするはずのなかった私がお寺に足を運んでいる事実、また手を合わす私ではなかったはずなのに合掌する事実、日常のふとした言葉や出来事の中に手を合わせたくなる心が起こる事実。こうした事実の上にそっと私の身の上にはたらき寄り添ってくださっていることを味わいたいものです。

 

 

そして何より今、私がこうして仏法に出遇い、阿弥陀さまの教えを聞かせていただいているという事実。それこそが、すでに還ってきてくださった仏さまたちのおはたらきの現れではないでしょうか。

 

 

「帰ってきていない」と思っていたその問いが、阿弥陀さまのお話を聞き開くとき「ずっといてくださったんだ」と変えられていくのです。そこに亡き人や仏さまの願いを、ありがたく受けとめていく道が静かに開かれていくのです。

 

お盆に際し、お念仏する中に亡き方を想い、仏縁に合わさせてくださった事にお礼を申したいものです。