「願いを受けて生きる」――その問いから(2025年9月)
郡島朋昭 本願寺派布教使 福岡教区 那珂組 光照寺
暑さが厳しい夏の盛りには控えていますが、お寺の近隣のお宅にはできるだけ歩いてご法事に伺うことにしています。
運動不足の解消や駐車場の問題など、色々と理由はあるのですが、移動中に地域の方のお顔を見ることができるのも大きな理由です。
実際に歩いていると意外なほどにご挨拶をしてくださる方が多いものです。ご近所とはいえ、マンションの多い住宅地です。お互いに全く知らない人が大半の地域でこれほどお声掛けいただけるのは私が僧侶の姿で歩いているからでしょうか。
僧侶の姿を見ただけでご挨拶いただけるということは、先人たちが仏法を大切にして受け継がれてきたことの証のようで大変ありがたいことだと感じます。
しかし、その連綿と受け継がれてきた願いと営みを、この私が受け継いでいるのかということをふと考えます。
お念仏をいただく者はこう生きるべきという定まった形があるわけではありません。時代や場所によっても様々に生き様は変わることがあたりまえです。
ですが、どんな生き方であってもあなたはそのままでいいと、私たち一人ひとりの在りようを認めてくださる阿弥陀仏の願いが私に向けられているからこそ、どう生きて行きたいか自らの今を問わずにはおれないのです。
フラフラと様々なものに流されながら生きているこの私は、時代や場所に影響されて定まることがない人生を歩んでいます。そんな私たちを繋ぎ包んでくださる阿弥陀仏の願いを大切に受け止めて、互いの存在を称えあっていくということがお念仏を支えとして生きていくということでしょう。
「帰ってきていない」と思っていたその問いが、阿弥陀さまのお話を聞き開くとき「ずっといてくださったんだ」と変えられていくのです。そこに亡き人や仏さまの願いを、ありがたく受けとめていく道が静かに開かれていくのです。
お盆に際し、お念仏する中に亡き方を想い、仏縁に合わさせてくださった事にお礼を申したいものです。