「御恩報謝」(2025年11月)
木村 誉 本願寺派布教使 福岡教区 福岡組 妙泉寺
10年ほど前、先にご往生なされた大峯顕先生のご法話をお聴聞させていただいたときのことです。場所は中央区渡辺通りの専立寺樣。報恩講法要、夜の御座のご縁でした。お話が終盤に差し掛かると、大峯先生が「何か質問はございますか?」と仰ったので、私は恐る恐る手を挙げました。
「私は、京都から帰ってきて数年が経ちますが、実際に浄土真宗のみ教えをどのように実践すれば良いのか、未だに分かりません。先輩方には、念仏者の報謝行として、様々な社会的課題に取り組んでいる方々がおられます。私は未だに自分の課題が見つからず、生き方が定まらないようでモヤモヤします。生き方を問わない仏樣だと、聞かせてはいただいておりますが…。」
すると、大峯先生は一息ついてこうお答えになりました。
「あのね、本当の御恩報謝なんて、よほどの専門知識がないと出来ないんだよ。」そしてただ一言、「まだ若い。焦らずたくさんお聴聞なさい。」と。
それを聞いた当時の私は、失礼ながら『なんと冷たいことを仰るのだろう。それじゃあ、ごく限られた人しか実践できないという事じゃないか。』と戸惑いを感じたことでした。
しかし、その後何年もの間、先生のそのお言葉がどうしても頭から離れず、考え続ける日々が続きました。そしてある日の晩、ハッとしました。大峯先生は、きっとこう仰りたかったのではないか。
『御恩報謝というのは、あなたが自らの力で努め励んで行うものではない。報謝行の原動力はすべて阿弥陀様。ご本願の力なのだよ。そのお力にそれぞれの縁で突き動かされ、念仏者の報謝の歩みが始まる。その歩みに終わりはないのだよ。もしあなた自身が原動力なら途中で飽くることもあろうし、疲れ果てて辞めてしまうこともある。でも、阿弥陀様はいつまでもこの私にはたらき通しである。だから、どんな小さな事でも続けていれば、いつの間にか計らずともその分野の専門家と言われるところまで来るのだよ。その歩みが、本当の報謝行であればね。』と。