浄土真宗本願寺 福岡教区

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みんなの法話

秋里大勝 本願寺派布教使 山口教区 美祢東組 明楽寺

 ある日の夕方、お友達の家へ遊びに行った長男を迎えに行った時のことです。「パパが迎えに来たよ。」とそのお友達が長男を呼んでくれました。その言葉を聞いた時、私は何かモヤモヤっとする違和感を覚えました。なぜならば日頃からこどもたちに「パパ」と呼ばれることがないからです。

私のこどもたちは私たち夫婦を幼い時からいつも「お父さん、お母さん」と呼んでくれています。それは子どもたちが言葉を発せない時から「お父さんよ、お母さんよ」と子どもたちを呼びかけて「お父さんと呼んで欲しい、お母さんと呼んで欲しい」という親の願いの中にこどもたちが育ってくれたからです。長男のお友達は「パパと呼んでおくれ、ママと呼んでおくれ」というご両親の願いの中に育てられたのでしょう。これは世界中に共通することではないでしょうか。アメリカの父親は「ダディー」と呼んで欲しい、アメリカの母親は「マミー」と呼んで欲しい、韓国の父親は「アッパ」と呼んで欲しい、韓国の母親は「オンマ」と呼んで欲しい等と、世界中のこどもたちはそのような親の願いの中に育てられていくのです。

阿弥陀如来様はすべての生けとし生けるいのちを「私があなたのいのちの親です。あなたのいのちを全て引き受けます。お願いですから、心から疑いなくお浄土に生まれると思い定めて南無阿弥陀仏と私の名を呼んでおくれ。」と喚び続け願ってくださってありました。私が「南無阿弥陀仏」と口にお念仏を申す身の上に成らせていただいたのも、その深い願いの中にお育ていただいたからであります。

「南無阿弥陀仏」、私にいのちの親の名乗りをしてくださった方に遇えたこと、そのいのちの親の名を呼ばせていただける身の上にお育て賜ったことをただ喜ぶばかりであります。

称名